2015年02月12日

論考・アニメ『ぼくらの』この世は命を尽くす価値が有るのか?

 登場する人物は敬称略、私が観てない作品には(未)を追加。カッコ内は発表された年号。物語の内容を記述するので、これから観ようとする人に予断を与えることになるので、考慮されたし。

1.はじめに
 アニメ『ぼくらの』(2007)及び原作『ぼくらの』(2004)を論じ、他作品に与えた影響を考えてみる。推論が入るが、単なる私なりの独自解釈ということでお許し頂きたい。

 アニメ『ぼくらの』は鬼頭莫宏原作マンガ『ぼくらの』を森田宏幸監督(GONZO)がアニメ化したものである。アニメ版は幾人かの登場人物の設定や物語が変更となっている。

 マンガは劇的な展開を重視し、社会背景は自衛軍を中心に描かれている。
 アニメ版は物語の一体感を重視しており、財界・官界・政界・報道の舞台裏を描写し、作品の社会構造を立体的なものにしている。また、幾つかの伏線をまとめて綺麗に収束する。
 原作に否定的な発言を行うまでしても、苦闘しながら設定に変更を加えた森田監督の意図を考察する。

 似た作風である岡本倫に当てはめると、『エルフェンリート』が鬼頭莫宏の『なるたる』であり、『極黒のブリュンヒルデ』が『ぼくらの』に該当する。主役級の人物を増やし、相互の関係性を描くことにより、物語を複層化させ、感情の起伏を描いている。


2.圧倒される絶対的悲劇
 15人の少年少女がゲームと称して騙されてロボット対戦に参加させられる。自らの宇宙の存続を賭け、分岐宇宙の人類との対決を迫られる。強制的に平行世界との生存競争をやらされる訳である。
 全く事情を知らされず参加し、しかも「ジアース」(500m級巨大ロボット)を稼働させるのは自らの魂であり、戦闘の勝敗に関わらずパイロットは戦闘後に死ぬ。ロボットアニメの領域を遥かに超えて、パイロットとして死んでいく少年少女の身の上から社会の不条理を語り、「この世は命を尽くす価値があるのか?」という命題に迫る。
 過去の作品を流用して表現すれば、深沢七郎原作「楢山節考」に出てくる”おりん婆さん”の様に、死期を悟った中学一年生の少年少女が身辺整理をして、順々に戦闘に突入していくような物語と言えようか。

 ネットを見て知ったのだが、私が「シリアス物」と自己分類していたアニメは「鬱アニメ」と称されているようだ。【観ると鬱になる】という意味なのだろうが、この鬱という概念自体が精神科医らによる投薬療法へ引き込むための「罠」らしい。であるから、鬱という言葉は使わないほうが望ましいし、悪い意味合いがあるので、作品評価に際しても失礼である。だが、この『ぼくらの』が「鬱アニメ」として高い評価をされている事は、作品を観て内容を論ずるに値する傍証指標として知っておいても良いだろう。
 「鬱アニメ5選」(NAVER)では『ひぐらしのなく頃に』を押さえて最初に紹介されている(1)。「鬱アニメランキング投票」では二位の『ひぐらしのなく頃に』(2006)を引き離して堂々の一位である(2)。
 『ひぐらし』では残虐シーンがくどいぐらいに登場する。物語が同じ同情人物で並列して進行する。『うみねこのなく頃に』(2009)でも物語展開で応用されて用いられている。
 残虐シーン描写という点では『School Days』(2007未)も『ひぐらし』と並んで注目された。両作とも学校を舞台として、主人公が複数の女性キャラと交流する「ハーレムアニメ」であり、取っ付き易い作風であったから耳目が集まった。しかし、私が判断するに、アニメ史においての重要性は『ぼくらの』の比ではない。

(1)ストーリーが重すぎる/(^o^)\くら〜い鬱アニメ 5選
(2)鬱アニメランキング

 悲劇的な設定という点で言えば、挙げればきりがない程にあるにはある。『RED GARDEN』(松尾衡・GONZO 2006)では主人公らの4人の少女は「既に死んでいる」設定で物語は始まり、次々とゾンビと闘い勝利し続けなければ、生存を許されない。様々な映像表現やプレスコ(吹き込みに併せて動画作成する)などの技法は『紅』(2008)に引き継がれた。

 マンガやリミテッドアニメで表現技法を開拓してきた手塚治虫は劇的な物語展開や登場人物の苦悩や善悪の二面性に徹底的にこだわった。単純な勧善懲悪を嫌い、観客に迎合するよりも強い印象を与え、登場人物を思い悩ませ、作品を通じて数多くのメッセージを伝える事に尽力した。
 劇場アニメ『西遊記』(東映動画1960未)の製作に参加した手塚はヒロインの死を執拗に提案したが、製作陣に家族向け劇場アニメとしては相応しくないと却下されている。やがて、手塚は虫プロダクションを設立し、圧倒的高視聴率を誇るがゆえに勧善懲悪化が進んでいた鉄腕アトムの主人公アトムを最終回で太陽に突入させて死なせている。
 なんでも、死ねば良いというわけではない。死によって観ている者を惹きつけ、考えさせる効果を狙っている。
 虫プロで『海のトリトン』(原作手塚 1972 未)の監督を手がけた富野喜幸(富野由悠季)は善悪逆転の衝撃のラストで物語を締めくくっている。善悪は絶対的なものではない、という手塚が描こうとしてきた重要なテーマの一つであった。

 『ぼくらの』でも物語が進むと相手のロボット操縦者達が出てくる。互いに自らの属する宇宙の命運を担って戦っている。当然、相手には相手側の生存を賭けた正義がある。その点も『ぼくらの』が描き出した一要件である。


3.セカイ系を受け入れるアニメ界
 自らの搭乗するロボット対戦が世界どころか宇宙の存続を左右するなどと、あまりに舞台設定が荒唐無稽すぎやしないか、とオタク文化の接していない人達は思うだろう。仮に製作者側が今までのアニメ文法を全く理解しない人物で占めらていたとしたら、殆どの作品は企画書の段階でゴミ箱に放り込まれて、陽の目を見ることはない。

 私的な世界と世界全体の趨勢が直結している世界観設定、これを「セカイ系」と称する(3)。正直あまりしっくり来ないが、そういう事になっている。
 セカイ系の始祖は「意識の融合」を描いた『イデオン』(富野由悠季1980未)とされる。これを『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明1995)が開花させ、『ラーゼフォン』(2002)が引き継いだ。
 庵野は『Vガンダム』(富野1993)を観てエヴァンゲリオン製作を決意したとされる。庵野はVガンダムの作画にも参加している(4)。
 悲劇的な物語展開、狂気を孕んだヒロイン、宗教ファシズム国家の驚異と『Vガンダム』が、アニメ界に与えた影響は大きいと思われる。『ぼくらの』繋がりでは、Vガンの主人公ウッソ・エヴィンを演じた阪口大助が『ぼくらの』では和久隆(ワク)を演じている。快活で前向きな性格の少年という点も類似しているが、『ぼくらの』では壮大な悲劇の露払いとして先陣切って死に至る。
 『蒼穹のファフナー』(脚本冲方丁2004)は、日本最後の孤島防衛戦を戦う少年少女の物語であり、作中におけるファフナー搭乗者は中期的には結晶化していずれ死に至る点は『ぼくらの』と類似している。
 『ぼくらの』に搭乗するロボットは『エヴァ風』であり、重力をあまり感じさせない個体の存在も含めて、「エヴァの遺産」に乗っかって成立している。

 先にアニメ史に登場したセカイ系作品の存在なくして、突発的に『ぼくらの』が登場することは、あり得なかったと思われる。『ぼくらの』登場まで、荒唐無稽とも思われかねない世界観を受容する下地があった、ということは言えるだろう。

(3)セカイ系が描く世界――セカイ系概論


4.現代社会の問題点を描く
 いわゆる2000年問題はコンピューターだけの問題では無かった。清和会に権力が移ると同時に日本社会の劣化が顕著になってきた。アニメ界も呼応して、作品に社会問題を取り込むようになった。

『ガサラキ』(高橋良輔 1998)「日米間において金融と軍事が表裏一体である事実」
『BLOOD+』(竹田菁滋P 2004)「世界的財閥による軍事・製薬支配」
『エウレカセブンAO』(竹P 2012)「エネルギー問題、沖縄独立、米国による軍事・情報支配」
『残響のテロル』(2014)「米政府及び諜報機関による日本支配、核燃問題、児相問題」
 他にも色々あるのだが、『ぼくらの』が特筆すべき点として、現代日本社会の構造問題を赤裸々に描いたことにある。
 物語そのものも、あたかもペルシャ絨毯のように緻密に編み込まれ、台詞やカットに隙がない。それに加えて、日本社会の権力構造を「誰もが分かる形で描いた」点にある。
 この点が原作マンガと差がある大きな箇所である。

森田監督は
「小松左京の原作も森谷監督の「日本沈没」も、政治的な映画としてすごく面白いと思ったのですが、樋口監督はこれをメロドラマにしていると思いました。」(5)
と述べている。森田は作品の価値として、政治的な面を描きこむ必要性を感じており、『ぼくらの』に社会問題を描きこむ事に相当注力した事が伺えるし、実際に描きこまれている。

 要約すると3点ある。

 古茂田孝美(コモ)の父は、原作では軍人だが、アニメでは国会議員となっている。「ジアース」や「ジアースプロジェクト」(エネルギーの空間伝送技術を財界が軍事や民需転用を謀っている)を国会で暴露する。謀略で辞職に追い込まれるも、記者会見で「ジアースが宇宙の命運を握っている」事実を暴露し暗殺される。一つには娘を救いたいという事も動機であるが、国会議員としての責務に基いて殉職を選択する。故・石井紘基氏を彷彿とさせる(6)。

 報道の問題も語られる。往住愛子(アンコ)の父は有名報道番組のキャスターであり、ジアースの問題を報道するも、スキャンダルを報じられ降板させられる。(原作でも類似の展開)

 財界が総理や内調を顎で手足のように使っている。日本の権力構造の頂点は財界であるとしている。警察の捜査権を奪う形で、内閣府内閣官房内閣情報調査室の人物が名乗って出てくる点も、霞ヶ関をよく観察していると言える。

 なるべく緻密に日本社会を描こうとした背景には、「セカイ系」としての虚構化を避けたいという、森田の強い意図がある(7)。

 「猫の恩返し」で森田はジブリとも繋がりがあり、宮崎駿との作風の違いを述べている(11)。宮崎がファンタジーを用いて迂遠な表現を用いるのは、その必要性があるのだと、私は推察する。宮崎の監督引退会見を見ると、反戦・脱原発発言では、かなりの圧力を受け、危険を避けるために「高畑・鈴木と三者で同時に発言した」などとも述べている。
 宮崎は「もはやファンタジーを作っている時代ではない」と宣言して『風立ちぬ』(2013)を製作。夢モードのカットで、ゼロ戦が累々と屍を晒し、カプローニに「結局は(三菱や軍部が)国を滅ぼしたのだからな」と語らせている。
 名指しで三菱を批判した点だけを抽出すれば、日本社会構造の急所の突き具合は『ぼくらの』以上といえる。
 仮に「宮崎駿の後継者」を挙げるとすれば、筆頭で森田の名が挙がるであろう(11)。それはこの社会問題への直接的な表現を行ったという観点のみではない。登場人物への誠実な描写を苦心惨憺しながら行っているという事も含まれる。

(6)2013/11/27 【文化】「複雑化したシステムの中心に東大がある」石井紘基氏が調べていた特別会計の闇の源流 〜安冨歩教授の授業 
(7)「ぼくらの」8話によせて
「ジアースに乗ったパイロットは死ぬ」という戦いのルールは変えない。それを変えてはこの原作をアニメーション化する意味はない。かわりに、まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変えるということです。私が鬼頭さんに頼んだのは、いわゆるセカイ系と呼ばれる作品群は、少年少女と世界状況を直接結びつけ、あいだに介在する社会を描かない。ぼくらのでは社会を描かせてくれ、と頼んだのです。
(11)「宮崎駿の後継者」になる監督は誰か?


5.『魔法少女まどか☆マギカ』への影響
 近年、社会的な注目を集めたアニメ作品としては『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)が挙げられる。私は意地悪なので、元ネタ探しをずっとしていた。
 元々観ている作品数が少ないので、解答が得られるとは思ってなかった。アシモフ程度は呼んだが、ハインラインなどのハードSF小説群を読んでいない点が致命的である。
 原作は新房昭之、虚淵玄、蒼樹うめ、シャフト4者「Magica Quartet」の合議であるとされる。
 原点は『コゼットの肖像』(2004)と新房が述べているが(8)、ダークファンタジー分野の作品を手がけ、演出を積み重ねたという意味であると思われる。脚本は関島眞頼担当している。
量子論的な時空感覚や時の円環という点では、関島眞頼脚本の『ゼーガペイン』(2006)が元ネタだろう(9)。
 『まどマギ』のキモは「キュゥべえ」の存在である。「魔法の使者」を名乗る、地球外生命体の端末として登場する。人類を超える宇宙の理を知る存在であり、魔法少女達を操ろうとする。もっとも、魔法少女は契約と同時に死ぬわけであり、この点は先出の『RED GARDEN』と同じである。
 「キュゥべえ」と『ぼくらの』に登場する「コエムシ」は極めて似ている。『まどマギ』が社会現象足り得たのは、少女達の置かれた悲劇的立場であり、SF的設定演出を違和感なく伝達する「キュゥべえ」の存在である。他にも戦闘時には仮想的な魔法セカイへ入り、独特の映像表現が駆使される。とはいえ、私の見立てで言えば、『まどマギ』こそが、『ぼくらの』の直系作品だと言える。


(8)映画公開マジカ「魔法少女まどか☆マギカ」の原点「コゼットの肖像」がやっと出た
(9)星方武侠アウトロースターとゼーガペイン


6.この世は命を尽くす価値が有るのか?
 『ぼくらの』が命題としたのは、「この世は命を尽くす価値が有るのか?」という事である。私には日本語に「命を尽くす」という表現があるのか分からないが、本作においては正に「尽くす」という表現が的確である。軍人でもなく、ナウシカの様に大剣を振るって甲冑を着込んだ大男をバッタバッタと倒すわけでもなく、普通の少年少女に、世界どころか宇宙の命運を担い、戦って死ねという極めて過酷な運命を担わせる物語である。本作は、ごくそこら辺にいる普通の少年少女を登場させ、日常や社会を丁寧に描くことにより、異様な現実感を帯びた。各人の個性や家庭環境は様々であるが、今のアニメやマンガがとりわけ強調しがちな「特異的な存在」という所がまるでない。
 当然、座視することなく、彼らに対し、命を賭けて助けようとする大人も出てくる。しかし、運命には逆らえない。少年少女らは逆らえない不条理に従い、ためらいつつも家族や恋人を想い戦い死んでいく。

 森田は悲劇的な展開を重視する原作マンガへの挑戦を宣言して、アニメ版では最後に救いを与える(12)。
 森田が重視したのは作品を観た者が、現実における自分の生存に関する答えを得ようと努力すべく誘導する事である。それは一言で言えば「希望」であり、この社会の根源的な「価値」を問いかける宣言だと言えようか。


(12)アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」森田宏幸監督
「私は、テレビ版のシナリオ作業に入る時点で、手元にあった原作のキャラクター、すなわちマキ編までの各キャラクターに関しては、すべて原作にあるエピソードやモチベーションを核にして、脚本にしてます。その作業は大きく、解体と再構成に分かれ、解体作業では、ストーリーに結実しない無駄を切り落とす、再構成に際しては、新たなアイディアを付け足すというものです。
鬼頭さんの敷いた世界観ルールはすべて受け入れる。そのかわり、ストーリーは変える。です。これは、ある意味原作への挑戦、死にたくないと思っている子供たちと私は立ち位置を同じくして、希望を見つけだそうということ、です。」


関係映像
ぼくらの【15人の物語】 
「ぼくらの」(アニメ版) 名言集 
「ぼくらの」番組宣伝用トレイラー 
MAD ぼくらの すべての アンインストール 
【ぼくらの】ED「Vermillion」 Full
Chiaki Ishikawa - Uninstall (Subbed PV) 
played with violin "Uninstall" [bokurano] 

posted by たかおん at 01:21| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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