2015年02月14日

70年代のマンガ文化を体現したジョージ秋山

【1】仮説「70年代のマンガ文化がアニメ文化の下地になった」
 特定の媒体において、作者同士が影響しあって、急激に成熟していく、という事を辿ることは、実に楽しい。私は単に傍観者であるに過ぎないのであるが、同じ時代を生きた、もしくは遅れて文化の残り香を嗅いでいる、と考えるだけで、その場に居合わせた事が実に幸運に思える。
 特に1970年代はマンガ文化が表現や内容面で競い合って成熟した。この事が後にアニメが勢いを保ちつつ、長きに渡り隆盛を得ている事の下地になっていると思われる。
 手塚治虫がマンガとアニメの二足のわらじを履いて、自分のマンガ作品を次々とアニメ化して活躍したことを考えれば、当たり前の事ではある。「劇画の台頭」と対応する形で、手塚の『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』『空気の底』『ブラックジャック』が発表された(1)。
 手塚が一時期居住していた「ときわ荘」の住人でもあった水野英子は女性少女漫画家の草分け的先駆けになり、歴史上の時代を背景にして壮大な西欧ロマンを描いた。『ブロードウェイの星』では黒人差別問題やベトナム反戦運動を取り上げている(2)。水野以前は少女漫画は男性が描いていた。驚くことに松本零士にも少女漫画作品が多数ある。
 1970年には「女性版トキワ荘」として「大泉サロン」が形成され、竹宮惠子と萩尾望都が同居していたアパートに多くの女性漫画家が集まり、表現や物語・社会背景構築を競いあった(3)。

(1)手塚治虫Wiki
(2)水野英子Wiki
(3)大泉サロンWiki
「大泉サロンとは、竹宮惠子と萩尾望都が同居し、「24年組」と呼ばれた漫画家達が集っていたアパートを指す。」


【2】マンガに当時の社会問題を大胆に取り入れたジョージ秋山
 ジョージ秋山はマンガという表現媒体を通じ、喫緊の社会問題を取り上げた。秋山曰く「全共闘とか、東大紛争、皆が共有していた。」ということである。
 秋山は『銭ゲバ』(1970)で水俣病被害を銭で封じる蒲郡風太郎を描いた。公害を告発する小説家に「公害はうんこだ!あんたはひとにうんこをくわしているんだ!」と言わせている。ゲバとはゲバルトの略語であり、国家に対する実力闘争を意味した。作中での「銭ゲバ」とは銭のためにはなんでもする奴と説明されている(1)。

 魔魔男爵の「神は死んだ」で始まる、ジョージ秋山作漫画『ザ・ムーン』(1972)。正義の実現のため2兆5000億円を費やして意識を通じてリモートで操作する「ザ・ムーン」を建造する。
 世直しのために水爆を使おうとする「連合正義軍」と、ザ・ムーンとそれを操る少年少女は戦う。少年少女を忍者にように陰ながら「糞虫」が助ける(2)。
 作中には広島や長崎の原爆によって発生した悲劇が語られ、使用されようとする水爆の威力も記述され、水爆による世界滅亡の脅威を伝える。
「アメリカやソ連ではメガトンよりもさらに強力なベガトン爆弾を研究している。
もし、東京に一発おとせば東京は全滅・・・さらに仙台から大阪までのあらゆる生物は焼け死ぬという。日本は三発で世界は30発で全滅する。」

 『アシュラ』(1970)では平安時代末期を舞台にして、飢餓による地獄絵図を描いた。人肉食などの過激な描写に世間の非難が殺到したジョージ秋山最大の問題作である(4)。驚愕すべきことに『アシュラ』は2014年に原作の世界観に忠実な形で劇場アニメ化された。監督は『鴉 -KARAS-』や『神撃のバハムート』を手がけた、さとうけいいちである。

 同時期、山上たつひこ『光る風』(1970)が発表され、放射能禍と米軍支配を取り上げた。後の『はだしのゲン』(1974)登場の露払いになったと思われる(3)。
大胆なSF的世界観構築では小室孝太郎『ワースト』(1969)が重要な作品である(5)。
公害問題取り上げた作品としては『漂流教室』楳図かずお(1972)も挙がる(6)。

 作家同士が影響しあって、マンガ文化を成長させた。竹宮恵子は表現の限界を競い合ったと述べている。マンガ作品を通じて社会問題を認知させる手法において、ジョージ秋山は大きな役割を果たした。

 3.11後に我々が目の当たりにしたのは、恐るべき報道統制の世界である。ツィッター上では当時のベトナム戦争を批判して、ラジオ局からパージされた元ジャーナリストの告発もあった。歴史は繰り返すというよりも、戦後は米政府と通じた官僚機構によって統制され続けていたのが実態である。

 GHQは日本占領期間中の7年間、「プレスコード」敷いて言論統制を行った。しかし、当時のマンガ出版を支えた少年向きの講談本・落語本「赤本」は子供向けということで、検閲を受けなかった。この事が後々にマンガが社会問題を捉え、作中に盛り込む事を許された遠因になっている可能性がある。

(1)『銭ゲバ』Wiki
(2)『ザ・ムーン』Wiki
(3)『光る風』『きりひと讃歌』『はだしのゲン』をつなぐ放射能禍
(4)アシュラ (漫画)
(5)手塚治虫の系譜を継げなかった男・小室孝太郎の悲劇
(6)漂流教室Wiki


【3】『ぼくらの』を産んだ『ザ・ムーン』
 以前取り上げた鬼頭莫宏原作マンガ『ぼくらの』は秋山の『ザ・ムーン』を下敷きにしていることを作中にて宣言している。
「物語のコンセプトはジョージ秋山の漫画『ザ・ムーン』に範をとったものであり、単行本1巻の初期の帯には秋山が推薦文を寄せていた。また、ジアースの名称も『ザ・ムーン』に肖ったものであり、作中で名付け親のマキがその旨を話している。」(1)
 アドバイザーとして重要な役回りをする「コエムシ」を漢字で書けば、おそらく「肥虫」。その由来は『ザ・ムーン』の「糞虫」から来ている。
 鬼頭は「『ぼくらの』を描くきっかけは「魔法少女モノ」であり、主人公が大きな力を得た代償として周囲を危険に晒してしまうところから、操縦すると人が死ぬロボットが発想されたという」(1)とも述べている。
 先達の作品があって、それを土台にして後続の作品が生まれる。日本のマンガやアニメ産業は連鎖しながら、数多の作品を送り出してきた。祖先を敬うが如く、ジョージ秋山諸氏へはただひたすらに感謝するのみである。


(1)『ぼくらの』Wiki
論考・アニメ『ぼくらの』この世は命を尽くす価値が有るのか? 
実はおすすめです 漫画「ザ・ムーン」

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2015年02月12日

論考・アニメ『ぼくらの』この世は命を尽くす価値が有るのか?

 登場する人物は敬称略、私が観てない作品には(未)を追加。カッコ内は発表された年号。物語の内容を記述するので、これから観ようとする人に予断を与えることになるので、考慮されたし。

1.はじめに
 アニメ『ぼくらの』(2007)及び原作『ぼくらの』(2004)を論じ、他作品に与えた影響を考えてみる。推論が入るが、単なる私なりの独自解釈ということでお許し頂きたい。

 アニメ『ぼくらの』は鬼頭莫宏原作マンガ『ぼくらの』を森田宏幸監督(GONZO)がアニメ化したものである。アニメ版は幾人かの登場人物の設定や物語が変更となっている。

 マンガは劇的な展開を重視し、社会背景は自衛軍を中心に描かれている。
 アニメ版は物語の一体感を重視しており、財界・官界・政界・報道の舞台裏を描写し、作品の社会構造を立体的なものにしている。また、幾つかの伏線をまとめて綺麗に収束する。
 原作に否定的な発言を行うまでしても、苦闘しながら設定に変更を加えた森田監督の意図を考察する。

 似た作風である岡本倫に当てはめると、『エルフェンリート』が鬼頭莫宏の『なるたる』であり、『極黒のブリュンヒルデ』が『ぼくらの』に該当する。主役級の人物を増やし、相互の関係性を描くことにより、物語を複層化させ、感情の起伏を描いている。


2.圧倒される絶対的悲劇
 15人の少年少女がゲームと称して騙されてロボット対戦に参加させられる。自らの宇宙の存続を賭け、分岐宇宙の人類との対決を迫られる。強制的に平行世界との生存競争をやらされる訳である。
 全く事情を知らされず参加し、しかも「ジアース」(500m級巨大ロボット)を稼働させるのは自らの魂であり、戦闘の勝敗に関わらずパイロットは戦闘後に死ぬ。ロボットアニメの領域を遥かに超えて、パイロットとして死んでいく少年少女の身の上から社会の不条理を語り、「この世は命を尽くす価値があるのか?」という命題に迫る。
 過去の作品を流用して表現すれば、深沢七郎原作「楢山節考」に出てくる”おりん婆さん”の様に、死期を悟った中学一年生の少年少女が身辺整理をして、順々に戦闘に突入していくような物語と言えようか。

 ネットを見て知ったのだが、私が「シリアス物」と自己分類していたアニメは「鬱アニメ」と称されているようだ。【観ると鬱になる】という意味なのだろうが、この鬱という概念自体が精神科医らによる投薬療法へ引き込むための「罠」らしい。であるから、鬱という言葉は使わないほうが望ましいし、悪い意味合いがあるので、作品評価に際しても失礼である。だが、この『ぼくらの』が「鬱アニメ」として高い評価をされている事は、作品を観て内容を論ずるに値する傍証指標として知っておいても良いだろう。
 「鬱アニメ5選」(NAVER)では『ひぐらしのなく頃に』を押さえて最初に紹介されている(1)。「鬱アニメランキング投票」では二位の『ひぐらしのなく頃に』(2006)を引き離して堂々の一位である(2)。
 『ひぐらし』では残虐シーンがくどいぐらいに登場する。物語が同じ同情人物で並列して進行する。『うみねこのなく頃に』(2009)でも物語展開で応用されて用いられている。
 残虐シーン描写という点では『School Days』(2007未)も『ひぐらし』と並んで注目された。両作とも学校を舞台として、主人公が複数の女性キャラと交流する「ハーレムアニメ」であり、取っ付き易い作風であったから耳目が集まった。しかし、私が判断するに、アニメ史においての重要性は『ぼくらの』の比ではない。

(1)ストーリーが重すぎる/(^o^)\くら〜い鬱アニメ 5選
(2)鬱アニメランキング

 悲劇的な設定という点で言えば、挙げればきりがない程にあるにはある。『RED GARDEN』(松尾衡・GONZO 2006)では主人公らの4人の少女は「既に死んでいる」設定で物語は始まり、次々とゾンビと闘い勝利し続けなければ、生存を許されない。様々な映像表現やプレスコ(吹き込みに併せて動画作成する)などの技法は『紅』(2008)に引き継がれた。

 マンガやリミテッドアニメで表現技法を開拓してきた手塚治虫は劇的な物語展開や登場人物の苦悩や善悪の二面性に徹底的にこだわった。単純な勧善懲悪を嫌い、観客に迎合するよりも強い印象を与え、登場人物を思い悩ませ、作品を通じて数多くのメッセージを伝える事に尽力した。
 劇場アニメ『西遊記』(東映動画1960未)の製作に参加した手塚はヒロインの死を執拗に提案したが、製作陣に家族向け劇場アニメとしては相応しくないと却下されている。やがて、手塚は虫プロダクションを設立し、圧倒的高視聴率を誇るがゆえに勧善懲悪化が進んでいた鉄腕アトムの主人公アトムを最終回で太陽に突入させて死なせている。
 なんでも、死ねば良いというわけではない。死によって観ている者を惹きつけ、考えさせる効果を狙っている。
 虫プロで『海のトリトン』(原作手塚 1972 未)の監督を手がけた富野喜幸(富野由悠季)は善悪逆転の衝撃のラストで物語を締めくくっている。善悪は絶対的なものではない、という手塚が描こうとしてきた重要なテーマの一つであった。

 『ぼくらの』でも物語が進むと相手のロボット操縦者達が出てくる。互いに自らの属する宇宙の命運を担って戦っている。当然、相手には相手側の生存を賭けた正義がある。その点も『ぼくらの』が描き出した一要件である。


3.セカイ系を受け入れるアニメ界
 自らの搭乗するロボット対戦が世界どころか宇宙の存続を左右するなどと、あまりに舞台設定が荒唐無稽すぎやしないか、とオタク文化の接していない人達は思うだろう。仮に製作者側が今までのアニメ文法を全く理解しない人物で占めらていたとしたら、殆どの作品は企画書の段階でゴミ箱に放り込まれて、陽の目を見ることはない。

 私的な世界と世界全体の趨勢が直結している世界観設定、これを「セカイ系」と称する(3)。正直あまりしっくり来ないが、そういう事になっている。
 セカイ系の始祖は「意識の融合」を描いた『イデオン』(富野由悠季1980未)とされる。これを『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明1995)が開花させ、『ラーゼフォン』(2002)が引き継いだ。
 庵野は『Vガンダム』(富野1993)を観てエヴァンゲリオン製作を決意したとされる。庵野はVガンダムの作画にも参加している(4)。
 悲劇的な物語展開、狂気を孕んだヒロイン、宗教ファシズム国家の驚異と『Vガンダム』が、アニメ界に与えた影響は大きいと思われる。『ぼくらの』繋がりでは、Vガンの主人公ウッソ・エヴィンを演じた阪口大助が『ぼくらの』では和久隆(ワク)を演じている。快活で前向きな性格の少年という点も類似しているが、『ぼくらの』では壮大な悲劇の露払いとして先陣切って死に至る。
 『蒼穹のファフナー』(脚本冲方丁2004)は、日本最後の孤島防衛戦を戦う少年少女の物語であり、作中におけるファフナー搭乗者は中期的には結晶化していずれ死に至る点は『ぼくらの』と類似している。
 『ぼくらの』に搭乗するロボットは『エヴァ風』であり、重力をあまり感じさせない個体の存在も含めて、「エヴァの遺産」に乗っかって成立している。

 先にアニメ史に登場したセカイ系作品の存在なくして、突発的に『ぼくらの』が登場することは、あり得なかったと思われる。『ぼくらの』登場まで、荒唐無稽とも思われかねない世界観を受容する下地があった、ということは言えるだろう。

(3)セカイ系が描く世界――セカイ系概論


4.現代社会の問題点を描く
 いわゆる2000年問題はコンピューターだけの問題では無かった。清和会に権力が移ると同時に日本社会の劣化が顕著になってきた。アニメ界も呼応して、作品に社会問題を取り込むようになった。

『ガサラキ』(高橋良輔 1998)「日米間において金融と軍事が表裏一体である事実」
『BLOOD+』(竹田菁滋P 2004)「世界的財閥による軍事・製薬支配」
『エウレカセブンAO』(竹P 2012)「エネルギー問題、沖縄独立、米国による軍事・情報支配」
『残響のテロル』(2014)「米政府及び諜報機関による日本支配、核燃問題、児相問題」
 他にも色々あるのだが、『ぼくらの』が特筆すべき点として、現代日本社会の構造問題を赤裸々に描いたことにある。
 物語そのものも、あたかもペルシャ絨毯のように緻密に編み込まれ、台詞やカットに隙がない。それに加えて、日本社会の権力構造を「誰もが分かる形で描いた」点にある。
 この点が原作マンガと差がある大きな箇所である。

森田監督は
「小松左京の原作も森谷監督の「日本沈没」も、政治的な映画としてすごく面白いと思ったのですが、樋口監督はこれをメロドラマにしていると思いました。」(5)
と述べている。森田は作品の価値として、政治的な面を描きこむ必要性を感じており、『ぼくらの』に社会問題を描きこむ事に相当注力した事が伺えるし、実際に描きこまれている。

 要約すると3点ある。

 古茂田孝美(コモ)の父は、原作では軍人だが、アニメでは国会議員となっている。「ジアース」や「ジアースプロジェクト」(エネルギーの空間伝送技術を財界が軍事や民需転用を謀っている)を国会で暴露する。謀略で辞職に追い込まれるも、記者会見で「ジアースが宇宙の命運を握っている」事実を暴露し暗殺される。一つには娘を救いたいという事も動機であるが、国会議員としての責務に基いて殉職を選択する。故・石井紘基氏を彷彿とさせる(6)。

 報道の問題も語られる。往住愛子(アンコ)の父は有名報道番組のキャスターであり、ジアースの問題を報道するも、スキャンダルを報じられ降板させられる。(原作でも類似の展開)

 財界が総理や内調を顎で手足のように使っている。日本の権力構造の頂点は財界であるとしている。警察の捜査権を奪う形で、内閣府内閣官房内閣情報調査室の人物が名乗って出てくる点も、霞ヶ関をよく観察していると言える。

 なるべく緻密に日本社会を描こうとした背景には、「セカイ系」としての虚構化を避けたいという、森田の強い意図がある(7)。

 「猫の恩返し」で森田はジブリとも繋がりがあり、宮崎駿との作風の違いを述べている(11)。宮崎がファンタジーを用いて迂遠な表現を用いるのは、その必要性があるのだと、私は推察する。宮崎の監督引退会見を見ると、反戦・脱原発発言では、かなりの圧力を受け、危険を避けるために「高畑・鈴木と三者で同時に発言した」などとも述べている。
 宮崎は「もはやファンタジーを作っている時代ではない」と宣言して『風立ちぬ』(2013)を製作。夢モードのカットで、ゼロ戦が累々と屍を晒し、カプローニに「結局は(三菱や軍部が)国を滅ぼしたのだからな」と語らせている。
 名指しで三菱を批判した点だけを抽出すれば、日本社会構造の急所の突き具合は『ぼくらの』以上といえる。
 仮に「宮崎駿の後継者」を挙げるとすれば、筆頭で森田の名が挙がるであろう(11)。それはこの社会問題への直接的な表現を行ったという観点のみではない。登場人物への誠実な描写を苦心惨憺しながら行っているという事も含まれる。

(6)2013/11/27 【文化】「複雑化したシステムの中心に東大がある」石井紘基氏が調べていた特別会計の闇の源流 〜安冨歩教授の授業 
(7)「ぼくらの」8話によせて
「ジアースに乗ったパイロットは死ぬ」という戦いのルールは変えない。それを変えてはこの原作をアニメーション化する意味はない。かわりに、まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変えるということです。私が鬼頭さんに頼んだのは、いわゆるセカイ系と呼ばれる作品群は、少年少女と世界状況を直接結びつけ、あいだに介在する社会を描かない。ぼくらのでは社会を描かせてくれ、と頼んだのです。
(11)「宮崎駿の後継者」になる監督は誰か?


5.『魔法少女まどか☆マギカ』への影響
 近年、社会的な注目を集めたアニメ作品としては『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)が挙げられる。私は意地悪なので、元ネタ探しをずっとしていた。
 元々観ている作品数が少ないので、解答が得られるとは思ってなかった。アシモフ程度は呼んだが、ハインラインなどのハードSF小説群を読んでいない点が致命的である。
 原作は新房昭之、虚淵玄、蒼樹うめ、シャフト4者「Magica Quartet」の合議であるとされる。
 原点は『コゼットの肖像』(2004)と新房が述べているが(8)、ダークファンタジー分野の作品を手がけ、演出を積み重ねたという意味であると思われる。脚本は関島眞頼担当している。
量子論的な時空感覚や時の円環という点では、関島眞頼脚本の『ゼーガペイン』(2006)が元ネタだろう(9)。
 『まどマギ』のキモは「キュゥべえ」の存在である。「魔法の使者」を名乗る、地球外生命体の端末として登場する。人類を超える宇宙の理を知る存在であり、魔法少女達を操ろうとする。もっとも、魔法少女は契約と同時に死ぬわけであり、この点は先出の『RED GARDEN』と同じである。
 「キュゥべえ」と『ぼくらの』に登場する「コエムシ」は極めて似ている。『まどマギ』が社会現象足り得たのは、少女達の置かれた悲劇的立場であり、SF的設定演出を違和感なく伝達する「キュゥべえ」の存在である。他にも戦闘時には仮想的な魔法セカイへ入り、独特の映像表現が駆使される。とはいえ、私の見立てで言えば、『まどマギ』こそが、『ぼくらの』の直系作品だと言える。


(8)映画公開マジカ「魔法少女まどか☆マギカ」の原点「コゼットの肖像」がやっと出た
(9)星方武侠アウトロースターとゼーガペイン


6.この世は命を尽くす価値が有るのか?
 『ぼくらの』が命題としたのは、「この世は命を尽くす価値が有るのか?」という事である。私には日本語に「命を尽くす」という表現があるのか分からないが、本作においては正に「尽くす」という表現が的確である。軍人でもなく、ナウシカの様に大剣を振るって甲冑を着込んだ大男をバッタバッタと倒すわけでもなく、普通の少年少女に、世界どころか宇宙の命運を担い、戦って死ねという極めて過酷な運命を担わせる物語である。本作は、ごくそこら辺にいる普通の少年少女を登場させ、日常や社会を丁寧に描くことにより、異様な現実感を帯びた。各人の個性や家庭環境は様々であるが、今のアニメやマンガがとりわけ強調しがちな「特異的な存在」という所がまるでない。
 当然、座視することなく、彼らに対し、命を賭けて助けようとする大人も出てくる。しかし、運命には逆らえない。少年少女らは逆らえない不条理に従い、ためらいつつも家族や恋人を想い戦い死んでいく。

 森田は悲劇的な展開を重視する原作マンガへの挑戦を宣言して、アニメ版では最後に救いを与える(12)。
 森田が重視したのは作品を観た者が、現実における自分の生存に関する答えを得ようと努力すべく誘導する事である。それは一言で言えば「希望」であり、この社会の根源的な「価値」を問いかける宣言だと言えようか。


(12)アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」森田宏幸監督
「私は、テレビ版のシナリオ作業に入る時点で、手元にあった原作のキャラクター、すなわちマキ編までの各キャラクターに関しては、すべて原作にあるエピソードやモチベーションを核にして、脚本にしてます。その作業は大きく、解体と再構成に分かれ、解体作業では、ストーリーに結実しない無駄を切り落とす、再構成に際しては、新たなアイディアを付け足すというものです。
鬼頭さんの敷いた世界観ルールはすべて受け入れる。そのかわり、ストーリーは変える。です。これは、ある意味原作への挑戦、死にたくないと思っている子供たちと私は立ち位置を同じくして、希望を見つけだそうということ、です。」


関係映像
ぼくらの【15人の物語】 
「ぼくらの」(アニメ版) 名言集 
「ぼくらの」番組宣伝用トレイラー 
MAD ぼくらの すべての アンインストール 
【ぼくらの】ED「Vermillion」 Full
Chiaki Ishikawa - Uninstall (Subbed PV) 
played with violin "Uninstall" [bokurano] 

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2011年09月01日

アニメ「ノワール」が投影した光芒のダブルオー年代

(敬称略)
1.私の予想に反して爛熟の10年を迎えた日本アニメ
 1995年TV放映のエヴァンゲリオンからアニメ界は以前よりも活況を見せ、商社筋の資本参加もあって、テレビでの放映本数も増加し、ファン層も拡大した。2000年世代、つまり00(ダブルオー)年代には、コンシュマーゲーム機やパソコンゲーム及びインターネットの成長などによりメディアが乱立した。私の予想では各メディアがファン層を奪いあう事になり、アニメは退潮期に入ると考えたが、実際にはオタク産業の中核メディアとしてアニメ作品は重要度を増し、デジタル化も進んで表現の幅を広げた。
 この光芒のダブルオー年代が後世に輝かしい評価を得るのは間違いない。同時代を生きた我々には各作品を評価し、何を感じて、何を考えたのか、書き記す義務があるとすら思う。
 2001年『NOIR』(ノワール)というテレビアニメ作品が放送された。予告編を見て、女子高生によるガンアクションと、殺伐とした暗殺シーンに「不謹慎極まりないこの作品だけは絶対見ない」と固く自分に誓ったのだが、ひょんな事から見たのが運の尽きで、3回は通してみるはめになり、サウンドトラックは幾度となく聞いた。
 ノワールはセルアニメとしては最後期に当る。セルの色調や質感、透過光処理、重力感のある動画など、これまで慣れ親しんできたアニメーション表現が駆使されていたことも、古くからのアニメオタクとして親しみやすい感覚を受けたのかもしれない。ノワールを手がけた真下耕一監督が後に製作した「.hack」シリーズや「MADLAX」ではデジタル処理ならではの浮遊感を強調した演出が数多く見られるのが対照的である。

2.美少女(美女)ガンアクションの系譜
 真下耕一監督の『ノワール』(2001年)は『MADLAX』(2004年)や『エル・カザド』(2007年)と併せて、美少女がツーマンセルで謎を追うガンアクションアニメ3部作と言われている。同じく真下耕一監督は『Avenger』(2003年)・『Phantom〜Requiem for the Phantom〜』(2009年)と美少女ガンアクションアニメを手がけている。
 時系列でみると士郎正宗の『アップルシード』(1985年)『ドミニオン』(1985年)『攻殻機動隊』の作品群がある。どれも体制側の軍務に就いている点で、他の作家とは設定が異なる。
 1990年にリュック・ベッソン監督の『ニキータ』(Nikita)が公開された。アンヌ・パリロー演じる少女の暗殺者が日本アニメに大きな影響を与えたものと推察される。
 『ガンスミスキャッツ』園田健一原作の初出が1991年なので、拳銃を使った美少女ガンアクションマンガの元祖と言えるかもしれない。1995年にOVAが製作されたが、不評だった。
 悪女ものガンアクションとしては、『爆裂天使』(2004年GONZO)、『ブラック・ラグーン』(2006年・2010年マッドハウス)が挙げられる。
 美少女を演出するという点においては、『ノワール』を上まわる緻密な表現と、それぞれの実銃に対応して録音した優れた音効を備え、『カードキャプターさくら』を担当した浅香守生監督の『GUNSLINGER GIRL』(2003年マッドハウス)が有る。
 他にはジオブリーダーズ(1998年)、CANAAN(2009年)が挙げられる。

3.重層な社会背景を宗教・社会体制・建築洋式と共に描く
 ノワールといえば、左派の人はフランスのルイ14世の下での信書検閲室 cabinet noir を想起するだろうし、映画ファンであれば、ギャング映画群を総称したフィルム・ノワールを連想するだろう。
 有り体に言えば、本作は『ゴルゴ13の美少女版』風であって、社会背景を丹念に描く事によって現実味を出している。また、謎めいた主人公「夕叢霧香」自身の存在を探し当てる道程そのものがストーリーの主幹となっている。
 「ノワール」ではソルダ最高評議会と原初ソルダへの原点回帰を願うアルテナ派の対立軸がある。ソルダ最高評議会は現実社会に照らし合わせれば、欧州議会を通じて行われるハプスブルク家らの貴族による寡頭政治を指しており、アルテナ派はかつて存在した民衆による清貧宗教運動であったカタリ派のような存在を象徴している。アルテナには死を司りいかなる敵をも打ち倒す「真のノワール」の称号を受け継ぐ暗殺者を育て、原初ソルダの理念や思想を取り戻す狙いがあった。一方のソルダ最高評議会は打ち続く戦乱を治め、複雑かつ巨大化した現代の政治経済体制を運営していく実務家となっていた。
 本作では建築様式に関する描写が多彩であり、歴史をなぞるかのようでもある。夕叢霧香は神奈川県の県立高校の生徒として物語が始るのだが、自宅の近くには五重塔のようなシルエットが浮かぶ。戦闘は京都風情のある竹林や、はたまた日本の高層ビル建築現場で行われる。舞台をパリに移すと、相方であるミレイユ・ブーケはパリジェンヌらしいモダンなルームデザインの部屋に住む。舞台を南米、中東、台湾、イタリアと移し、それぞれの国を醸し出す建築物がでてくる。後半では中世フランスに勃興した「ロマネスク→ゴシック」様式の発展経過を絵巻物でみるが如くロマネスク建築・ゴシック建築物が数多登場する。果てには霧香とミレイユの決闘はパルテノン神殿を思わせるドーリア式建造で闘われる。
 建築様式大辞典とも言える執念の描写はノワール1000年の歴史を演出するべく用意された背景でもあり、宗教的な装飾としても意味を持たせている。かつて暗殺集団を擁していた宗派もあり、ノワールの存在に現実味を与える役割をも担う。

4.サウンドトラック
 本作は作曲家梶浦由記の出世作でもある。戦闘シーンで使われる「salva nos」が愁眉。ラテン語の歌詞が使われている楽曲が多い。
 一部の楽曲が17世紀初頭に確立したと言われるイギリスの古楽民謡に似ている。To Drive The Cold Winter Away: Sothcott / St.george's Canzona 【寒い冬を追い払うために】ジョンスコットも参考に聞いてみると良いだろう。クールで澄み切った空間表現が特筆だ。

5.不出世の名声優「桑島法子」
 奇しくも「ノワール」の放映時間帯テレビ東京木曜25:15-25:45枠の前に放送されていた「アルジェントソーマ」(2000年)でハリエット・バーソロミュー(ハティ)とマキ・アガタの2役を夕叢霧香役の桑島法子が演じている。「アルジェントソーマ」では若々しいハティと、学者肌で落ち着いた低い声のトーンのマキを演じ分けている。霧香はノーワルとして覚醒する前と後とで、性格も声調にも差があり、実質一人で二役分演じなくてはならない。桑島法子あっての夕叢霧香だったのだとも言える。
 「ノワール」は夕叢霧香とミレイユ・ブーケ(声・三石琴乃)の愛憎劇も物語の重要な要素となっている。機動戦士ガンダムSEED(2002年)ではナタル・バジルール(桑島法子)とマリュー・ラミアス(三石琴乃)では類似した形で女同士の愛憎劇が再現されている。また、ガンダムSEEDでも、桑島法子はナタル・バジルールとフレイ・アルスターの2役を演じている。

6.まとめ
 「ノワール」に関するネットの論評を読むと押し並べて好評価である。本作は監督真下耕一・作曲家梶浦由記・脚本家月村了衛の名を知らしめた作品である。私にとってもノワールは「異様に」思い入れのある作品なのだ。原作・脚本は月村了衛。主人公らの劇的な立ち位置、思いもつかない物語展開、現実社会との擦り合わせなどの充実具合を考えると恐るべき脚本である。「少女革命ウテナ」にも脚本で参加しているゆえか、ウテナの影響も観て取れる。2010年に『機龍警察』で作家デビューしているようである。今後の活躍にも期待したい。
 推測でしかないのだが、私は本作が後に続くアニメーション作品に様々影響を及ぼしたと考えている。ノワールとはフランス語で「黒」の意味だが、アニメ「ノワール」は後に続く光芒(こうぼう)のダブルオー年代の魁けの作品であり、ジャパニメーション史に輝きを与える作品でもある。
 幸いに「ノワール」はサム・ライミ監督により、ハリウッドで実写のドラマ化が決定している。時に埋没することなく、ドラマを通じて原作である「ノワール」が、再び脚光を浴びる日が来ることを切に願う。

(参考)
サム・ライミが日本アニメの実写ドラマ化に着手!?二人の女暗殺者が主人公!
http://www.cinematoday.jp/page/N0028347
お願いミレイユそんな目で私をみないで
http://www2.famille.ne.jp/~proton/noir/noir.html
夕叢霧香twitter
http://twitter.com/#!/Kirika_Yumura
ノワールデータ図鑑
http://www5c.biglobe.ne.jp/~atnex/noir/data01.html
NOIR wiki
http://p.tl/gS8h
NOIR公式
http://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/tv/noir/
霧香に叫べ!
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/shinta20/
月村了衛
http://p.tl/AWcq
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2011年08月16日

私には韓流のどこが悪いのか分からない。

1.そもそもなぜフジテレビなのか?
 フジテレビに韓流抗議デモがあったそうだ。韓国のドラマや韓国スターが沢山登場するからけしからんということらしいのだが、どこが悪いのか解らない。自国以外の作品が沢山放映されるのがけしからんというのなら、米国製の映画・ドラマの氾濫にもケチが付くはずだが、私はそのような話しは寡聞にして知らない。韓国ドラマならNHKが宝庫である。幾つか断片的に観たが良くできている。NHKの大河ドラマ仕立ての様だがもっと登場人物の性格が栄えるように物語が出来ている。キャラ萌えさせる日本のアニメに近いだろうか。韓国スターというのは見たことないのだが、人気があるらしい。
 韓国映画は『8月のクリスマス』とか『シルミド』とか観た。特に「8月のクリスマス」が与えた衝撃は大きかったそうだ。日本の受賞の席で日本のとある映画監督が「日本映画界は敗北した」と言わしめた作品である。私が観た感じ、日本の60/70年代の映画みたいに人を素朴に描いているのだと思う。韓国の社会や文化の実情を丹念に盛り込んで映像化しているのも好印象だった。
 放映量から言えばフジテレビとNHKと比べて、NHKの方が多いだろう。公共性を考えればNHKに苦情が行くのなら分からないでもないが、なぜかフジテレビにデモが起されている。ビートたけしが言う通り、嫌なら見なければ良い。視聴料を取られているわけでもない。私にしてみれば、北朝鮮みたいに国営放送だけしか見れないテレビ・ラジオで不都合がない。私はDVDとかBlu-rayで映像作品を見ているので、テレビは殆ど見ないし、見てもNHKのドキュメンタリーぐらいだ。

2.何も考えてないのではないだろうか。
 つまり、韓流抗議なんてのは、チンピラの言いがかりみたいな話しで盛り上がっているということである。なにしろTwitterで最初に発言した高岡蒼甫がチンピラなのだからしょうもない。
 恐らく異国情緒を醸し出す他国の歴史ドラマに対する生理的拒否反応みたいなものがベースにはあるのだろう。また、日本のタレントと韓流が商売上競合しているので、思わず商売敵へ怨嗟のつぶやきがでてしまったのであろう。
 だが、第三者にしてみるとなんら差し障りのないどうでも良い話しなのだが、盛り上がっている。どうでもいいから盛り上がっているかもしれない。考えないで済むからだ。少し考えれば妙ちきりんな事なのだが、何も考えないと妙ちきりんだという結論すら出てこない。

3.文化多元主義
 反米ブロガー(のつもり)の私が言うのもなんだが、人として文化的な点では多様に受容する存在であったほうが、多くの作品を堪能できるし、啓発される。日本のアニメも空想的なものから、現実にある様々な文化や表現を貪欲に取り込んだから爛熟したのであって、韓流に学ぶところがあるのであれば学べば良い。
 韓国が日本の作品を受け入れていないという話しだが、私が行ったのは1995年頃だが、確かにソウル中心にある大型店に日本アニメは「ウインダリア」しか無かった。なぜウインダリアがOKなのかは見ると分かる。一方ディズニーはたくさん並んでいた。日本のマンガは大量にあったが、裸は禁止でスミを塗り足していた。ところが、小さな書店や露天では宮崎アニメとそのムック本が山盛りだった。公式には禁止しているのだろうが、市場は日本アニメが制圧している状態だったのだが。
 国情に差があっても、よっぽどの統制がある場合を除けば、良ければ売れるということなのだろう。「韓流けしからん」とかいうのは、考えない人達の愚挙にすぎない。
posted by たかおん at 19:42| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

「サマーウォーズ」病める帝国主義には血縁地縁の大同団結をもって当るべし

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(ネタバレあり)
○学校が舞台であった「時をかける少女」
 アニメで保守・革新というカテゴライズをするとなれば、「学校への依存度」がその尺度となるでしょう。学校を舞台としてどの程度用いるのかがアニメの保守度を指し示すということです。そういった意味においては細田守監督の劇場アニメ作品「時をかける少女」は万難を排した保守的な作品であったと言えます。
 学校が舞台であれば、若年層にとっては親しみやすい舞台であり、いかなる人にとっても学校はノスタルジーを感じさせる解りやすい設定なのであります。
 1979年の機動戦士ガンダムは学校へ登校する前に戦乱に巻き込まれてしまい、学校自体はでてきません。ホワイトベースの人間模様そのものが学校的ではありますが、従来の作品よりもサイエンスフィクション色が強い尖った作品でありました。
 学校なきSFアニメが成功するには、多くの人に受け入れて理解して貰えるだけの磐石な世界観を提示する必要があります。学校依存度から推し量ると、私は「時をかける少女」は安全を踏んだ手堅い作品であったと、考えております。

○舞台は大家族の旧家へ
 さて、サマーウォーズは出だしは学校ではありますし、学友佐久間敬は学校の部室から連絡を取り続けます。とはいうものの、舞台は大家族の旧家に移り、OZという仮想空間との行き来でストーリーは展開していきます。出だしからOZ内部の描きこみ、台詞回し、演出共々高クオリティーで始ります。最後までテンションが途切れません。どのカットもきちんと明瞭な意味があり、計算し尽くされたストーリテリングに驚愕させられます。
 89歳になる陣内家の16代目当主陣内栄を中心に、困難に直面した家族・社会への対処が組み立て実行されます。死して尚、遺言を持って一族を導く様が描かれます。

○論功行賞にはやる陣内侘助と能力を悪用するアメリカ帝国主義
 陣内家の当主だった大おじいちゃんの隠し子である陣内侘助は渡米して人工知能研究を行い、ハッキングAI「ラブマシーン」を作ります。その成功を手土産に華々しく祖母陣内栄に会いにきます。ところが、よかれと思って開発したAIはアメリカ国防総省がOZ上で実験で暴走を始めます。侘助と祖母栄の愛憎が悲劇を産むわけですが、侘助の能力が結実したプログラムを躊躇なく兵器として実証試験を行うアメリカ国防総省の存在も描かれます。
 悲劇的事態に直面した陣内栄が一族に伝えた教えとは、病める帝国主義には血縁地縁の大同団結をもって当るべし、ということです。これをエンターテイメントの絵空事と考えるか、国難に直面する日本国に対する諫言と見るかは人それぞれです。

○反米の系譜を継承するか
 BLOOD+・コードギアスと続いた反米の系譜には、元CIAが原作を著した劇場実写映画「レイン・フォール」、手塚治虫原作の劇場実写映画「MW(ムウ)」などが続いています。
 ポスト宮崎の呼び声も高い細田守監督ですが、本作をして優れた演出家としてだけではなく、高い作家性をも帯びてきています。ポスト手塚としての反米の系譜をも継承するか、大いに注目されるところです。

(参考)
サマーウォーズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BA#.E3.82.A8.E3.83.94.E3.82.BD.E3.83.BC.E3.83.89
2009年9月9日、民主党鳩山由紀夫代表は社会民主党・国民新党との連立政権樹立合意後、松井孝治参議院議員の勧めで、都内の映画館で鑑賞した。

サマーウォーズ問題その2(グローバル資本主義と家族回帰)
http://d.hatena.ne.jp/psb1981/20090904/1252060827

「「悪」としてのアメリカ〜アニメーションと「反米」」  戦闘美少女文化
http://navy.ap.teacup.com/bouei-bunka/36.html
「No.2である不安〜「コードギアス」の鬱屈」  戦闘美少女文化
http://navy.ap.teacup.com/bouei-bunka/37.html
posted by たかおん at 08:09| 埼玉 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | アニメ批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする