2007年06月21日

カードキャプターさくらが託した夢と現実

212886485_33.jpg○「きんぎょ注意報・わぴこちゃん」からの影響
 少女マンガの始祖は戦前のSF物の影響を受けた手塚治虫の「メトロポリス」に遡り、ビジュアル面では宝塚歌劇から影響を受けた同じく手塚治虫の「リボンの騎士」だとされる。
少女マンガや少女アニメの歴史は「瞳が大きくなっていく変遷」ともいえるだろう。
私が見た中で最も大きな瞳をしていたのは、「きんぎょ注意報」(1991年佐藤順一監督)の「わぴこちゃん」だろう。わぴこは「はよ〜ん」「ばいび〜」「〜だよん」などと独特の言い回しを用いている。一方のカードキャプターさくら(以下CCさくら)の主人公「木ノ本桜」(以下さくら)は「はにゃーん」「ほえ〜」が口癖だ。「わぴこ」も「さくら」も共に大きな瞳を携えたルックスでもあり、諸所においてキャラクター設定に直接の影響を与えていると思われる。
「きんぎょ注意報」は演出面の先達として、キャラが困った時などに頭から巨大なしずくマークを出して困っている様子を表現するという手法をアニメで初めて使用した。
ちなみに、スーパーファミコン版の「きんぎょ注意報」ゲームは3人のパーティーゲームシステムで、内容はとても面白かった。

○CCさくらの初見は禁忌のアニメ扱い
 何事も人には得手不得手がある。それは性格の一端を担って人格形成にも影響を及ぼす。 私のCCさくらの初見は、「よくある少女魔法物アニメが始った」という淡白なものだった。それに、やたらにあざといと思われたキャラクター設定やコスチューム、それに熱狂的な盛り上がりを見て、逆に引いてしまった。「美少女戦士セーラームーン」も殆ど見なかった。自分で「美少女戦士!」と名乗る放漫さと、解りやすすぎる設定に感情移入するとっかかりを見いだせなかったのである。裏筋路線大好きのたかおんは佐藤順一監督の「魔法使いTai!」(1996年)、赤ずきんチャチャ(1994年)なんかを見ていた。
 私は元々「魔法使いサリー」(1966年)「魔女ッ子メグちゃん」でアニメの洗礼を受けたので、最初は魔女ッ子物や世界名作劇場などを丹念に見ていたのである。やがて、松本零二物や富野アニメに傾倒していった。今(2006年)になってまた、魔法少女物アニメに衝撃を受けたのは何か運命的なものを感じる。
 CCさくらの原作者であるCLAMPは女性3人の共同体であり、アニメ制作にも関与している。「3人寄ればもんじゅの知恵」を具現したのだろうか、服飾は恐ろしく多彩で、丁寧な演出である。そこが従来の魔法少女アニメとの完成度の差を育んだと思われる。
 ストーリーテリングも凝っている。取得していくカードにより新たな魔力を習得し、次々に押し寄せる危機を切り抜けていくというストラテジックな展開となっており、物語の連続性と緊迫感を保っている。

○視聴環境と作品世界のインパクト
 遮音を施したホームシアターを曲がりなりにも獲得できたので、最近はぼつぼつと映像作品を見ている。その過程で友人に借りた中に「CCさくら」があった。普通にテレビで見るのとは違い、ワイドダイナミックレンジ・高S/N音声で、150インチ級の大画面である。長岡先生はホームシアターを「主客転倒」と評していた。暗闇での映像・大音響は視聴者を圧倒して支配し、叩きのめすのである。
質の低い作品は大画面でみると、粗が目立ってかえって評価が低くなる。しかし、CCさくらはセルアニメ時代の最後を飾るに相応しい高い作画品質を維持し、声優陣の演技力も素晴らしいものであった。
しかし、いい年した男が夜中に大音響で
「闇の力を秘めし鍵よ。真の姿を我の前に示せ。契約のもとさくらが命じる。レリーズ!!!」
等という台詞を聴きながら悦に入っているのはキモいことこの上ない(笑)。

○丹下桜さんはなぜ休業したのか?
 CCさくらの魅力は主人公「木ノ本桜」を演じている丹下桜さんの声質と演技力に負うところが大きい。さくらはクロウカードを使う時に絶叫するが、声色が変わらない。どうやら、さくらの声は丹下桜さんの地声のようだ。台本に指定があるのか、独自の演出なのか解らないが、作中に小声で「くふッ」とか囁いたりしている。実にダイナミックレンジの大きな声優さんだ。(^^ゞ
 丹下桜さんは他にアンドロイド・アナ MAICO 2010/トラブルチョコレート(ヒナノ)等が有名だが、やはり、注目は無限のリヴァイアス(和泉こずえ)だろう。さくらはその性格ゆえに皆から愛されて成長していくが、リヴァイアスのこずえはその性格ゆえにいじめられてリンチされる。全く正反対の性格及び設定のキャラクターなのである。無限のリヴァイアスの悲劇性の演出における多く部分は丹下桜さんの演じた「こずえ」の抜きんでた存在感にあった。迫真の演技の「和泉こずえ」を演じた後、丹下桜さんは「蓬仙あおい」役の桑島法子さんにわざわざ謝ったという逸話もあるそうだ。
 そんな高い実力と魅力を兼ね備えた丹下桜さんだが、2000年3月に休業宣言をして、2000年8月公開の「劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード」を最後に事実上の休業状態に入っている。
 休業に入った原因には諸説入り乱れている。事実確認されている情報は1999年7月に丹下桜さんは所属プロダクションの青二プロを辞めているという事だ。
 制作当時から時を経て、CCさくらを冷静な視点から観察してみて、私には放映当時にどれだけの熱狂が発生したのか伺い知れる。私が思うにCCさくらの熱狂的なブームが丹下桜さんを翻弄して疲れさせてしまったのではないかと思う。

○大東亜オタク文化共栄圏の夢
 ジャパニメーションは「杉並区−ソウル−大連」の三都市の連携で成立している。特に日本と中国は緊密な関係にある。昔のアニメ作品ではステロタイプな中国人キャラクターが出ていた。しかし、CCさくらに至ってはメインキャラクターに李小狼(リ・シャオラン)を用いている。TV版パート3は最終話に向けてさくらと小狼の恋心の交流が細やかに演出されている所も見所となっている。CLAMPは服飾だけでなく、中華文化を作中で随所に取り入れている。CCさくらの創作は香港映画をリソースとしながら、橋本政権下の時代の雰囲気を受けていたのだろう。
 CCさくらが遺したメッセージは個人に内在する「日本文化の桜」に表象される「美しき心」に幸せの源泉があるという哲学だけでなく、中華文化への理解と包容力の提示だ。世情が変ってしまった今こそ、その価値が評価されるべきだろう。


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以下は読まない方がよいですよ。
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○少女虐 待犯罪を励起した2ちゃんねるの現実
 奈良小1女児殺害事件(2004年11月の事件発生後、容疑者が特定される前に、2ちゃんねるの「CCさくら板」に立てられた虐待系のネタを扱うスレッドと事件の関連性を示唆する内容の報道が一部のニュースやスポーツ新聞で行われた。
大谷昭弘氏は「私は事件について再々、怨恨などではなく、異常な少女性 愛者による犯行ではないかと書いて、近ごろ特に目につくいわゆるフィギュアマニアや萌え族と言われる一部の人たちの嗜好に対して疑問を呈してきた」と提言した。

 私の意見は「誹謗中傷や反社会的情報を放置する2ちゃんねるが犯罪を励起した」である。インターネット上には少女虐待犯罪行為を書き連ねてある2ちゃんねるという場所が公然と展開されているのである。少女虐待は究極の反社会的行為である。2ちゃんねるは少女虐待犯罪行為の情報を複数の人間が「書き連ね」たスレッドを多くの人に閲覧させることによって、反社会的行為に対する道徳心を薄めて犯意を励起させたのではなかろうか。
 あめぞうさんは社会道徳に反する書込みは削除やIP規制して統制をとったのだが、1999年当時あめぞう掲示板のスタッフだった西村博之は「いかなる書込みも消さない掲示板」を標榜して2ちゃんねるを旗揚げした。その経緯から2ちゃんねるは反社会的な書込みも削除しない。その結果、目を覆うべき悲劇を生んだのである。私達にはこの現実と向き合う責務がある。
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2007年06月19日

戦争責任追求特撮作品『レインボーマン』

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○特撮作品として唯一無二、戦争責任をベースにした『レインボーマン』
第二次世界大戦、死者総数5000万人、1941年から1945年にわたり日本・ドイツを中心とした枢軸国とアメリカ・イギリスを中心とする連合国との間で争われた人類史上最大の大戦争である。
大戦中、他国の軍隊と比較し文明度の劣る日本の軍隊は、しばしば民間人や捕虜軍人の虐待を行った。戦後、虐待を行った日本軍は解体され、事実は歴史の中に埋もれようとしていた・・・。
しかし、虐待された側の人間はその事実を決して忘れることはなかった。彼らの心に暗く燃えたぎる日本人への復讐心。
「日本人を抹殺する・・・・!」
その思いの下、彼らはいつともしれず集結し、ある秘密結社を作り上げた。
それが、「死ね死ね団」である。
その日本人憎しの情念は、彼らの団歌「死ね死ね団のテーマ」(後述)に表わされている。

○ 「レインボーマン」の特撮物時代背景
「レインボーマン」(1972年放送開始)は「仮面ライダー」(1971年放送開始)の等身大変身ヒーローのブームの人気を受けて、企画・製作されたと推定される。しかし、後に続く「仮面ライダーシリーズ」や「スーパーロボット編隊物」と比較して異彩を放っているのは敵の思想設定である。
「死ね死ね団」のリーダー的人物の『ミスターK』は第2次世界大戦中に家族を日本兵に殺害され、さらに自分も日本人に虐待されたため日本と日本人を憎悪しており、日本を地上から消し去ろうと企んでいる。
 「死ね死ね団」の科学者『ドクターボーグ』は太平洋戦争の最中に、日本軍によって妻を殺害された恩讐のためにサイボーグ作戦を通じて日本社会壊滅を目論む。
そう、「レインボーマン」は特撮ヒーロー番組として”太平洋戦争における日本人の罪”を描いた、おそらく唯一の作品なのである。

○「死ね死ね団」の作戦とリアリティ
・キャッツアイ作戦
人の心を狂わす麻薬「キャッツアイ」を日本人に服用させ、日本を内部から潰滅させる作戦。
・M作戦
宗教団体「おたふく会」を通じニセ札を大量に流通させ、日本経済を大インフレに陥れて日本社会を大混乱させる作戦。
・モグラート作戦
地底戦車「モグラート」を使い石油タンカー等を破壊し、世界に「日本は危険な国」と認識させ国際的に孤立させる作戦。
・サイボーグ作戦
サイボーグ化させる薬「ボーグα」を散布し、人々を死ね死ね団の意のままに動くサイボーグとして日本社会を破滅させる作戦。
この作戦群を荒唐無稽と笑えないのが、「レインボーマン」の恐ろしいところなのである。1972年は第一次オイルショック直前であり、M作戦(偽造マネーインフレ作戦)、モグラート作戦(貿易封鎖作戦)は年率10数%のギャロッピングインフレやオイルショックに見見舞われた1970年代を通じて予言が成就してしまう。
 キャッツアイ作戦を「精神薬漬け作戦」やサイボーグ作戦を「思想洗脳作戦」と意訳するとまさに現在進行形である。 
 
○第22話『一億人を救え!』のハイパーインフレによる食糧不足は絵空事か?
レインボーマン全104話中最大のエピソードは第22話の『一億人を救え!』とされ「死ね死ね団のうた」にも「金で心を汚してしまえ」と拝金主義による貨幣経済体制崩壊が謳われている。
レインボーマンの活躍によって”キャッツアイ作戦”が失敗に終わった”死ね死ね団”は、次なる日本壊滅のための作戦、偽札と大量にバラまいて経済を混乱させてしまう”M作戦”を実行に移した。
偽札を作らされていたのは「死ね死ね団」に孫を人質に取られ松前源吉というじいさんである。しかし、じいさんはついに良心の呵責に耐え兼ねて、自らの命と引き換えに偽札工場を爆破する。
 しかし、一目では本物と見分けがつかない大量の偽札の登場によって貨幣はたちまちその価値を無くしてしまい、その結果、(当時の貨幣価値で)レタス1個1800円、キュウリ1本500円、ニラ1束500円、パン2個で1000円 という、極度のインフレ状態に突入してしまうのであった。
 やむなく政府は偽札の使用を禁止することにしたが、それによって貨幣は完全に無価値な紙切れへと変貌してしまい、さらに経済は混乱をきたすこととなった。
 偽札工場を爆破したところで、既に経済が破綻している現状には何の意味もなさなかった。飢えに苦しんだ人々は暴動を起こし、一家心中は後を絶たなかった。ハイパーインフレによる食糧不足により、飢えた市民は土一揆さながら、町の食料品店を次々と襲撃する。米屋を襲撃した暴徒が、生米を口に運ぶシーンが印象的だ。
 己の無力さに打ちひしがれ万策尽きたレインボーマンはなんと、強引に大臣室へ押し入り大臣に国民への食料の無料配給を “一人の国民として” 直訴にする。
 いくらなんでも無理な相談だと側近たちは反発するが、大臣はレインボーマンの提言を受け入れ、すぐさま食糧の配給を実施。こうして、大臣の英断で食料の無料配給が始まり、日本は危機的状況を脱し、国民の間に安堵の表情が戻ったのであった。 
 この『一億人を救え!』を絵空事と笑えるだろうか?巨額の財政赤字に押しつぶされそうになっている我が国の食料自給率はわずか40%なのである。エネルギー自給率に至っては5%である。
このままでは、『一億人を救え!』ならぬ、『一億人を救えない!』になりそうである。

○今そこにいる内なる「死ね死ね団製造組織」。
 日銀は実質的に国債の直接引き受けを行っており、裏づけの無い通貨発行を行っている。脹れ上がった日銀の貸借対照表の資産の部をみると、その危機的状況が良くわかる。今は貿易収支が黒字なので、日本円への信任は揺らいでいない。しかし、原油高が続き、国内製造業が衰えれば、それほど遠くない日に貿易収支は赤字に転落する。その時に、改めて円の信任が問われ、急激な円安に見舞われると予想されている。
とは言うもののすでにユーロ円では1ユーロ150円を伺う展開となっており、円安基調である。
アメリカは日本にイランのアザカデン油田の開発権利を放棄しろと求めてきている。一方、小泉靖国参拝翌日早朝に北方領土領海上でロシアによる日本漁船銃撃があり、他の漁船も締め出されてしまった。その後、日本勢も参画するサハリン州の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」についてロシア天然資源省は事業化調査承認を取り消した。外交の失敗によるエネルギー危機再燃が現実味を帯びてきた。
 しかも、次期総理に「内定」している安倍晋三は侵略戦争の事実を公然と否定し始めている。谷垣偵一財務大臣が「日中国交正常化をした時に、中国は戦争指導者と一般の日本国民を分けて国民に説明した経緯があった」と説明しても、「そんな文書は残っていない」とムキになって反論する始末だから手に負えない。国交正常化の際、中国側がこの「二分論の」理屈で、反日感情の残る国民を納得させて賠償を放棄したのは、紛れもない事実。小泉首相によるA級戦犯が合祀されている靖国参拝に中国が反発しているのもそのためだ。
 評論家の立花隆氏は「安倍晋三への宣戦布告」という一文を月刊誌に寄せ、作家の辺見庸氏も「安倍晋三官房長官の言動にはもっともっと警戒すべき」と警告を発して
いる。

○「死ね死ね団のうた」を決して笑えない。
国内外の情勢は予断を許さない。戦争責任問題の再燃は日本の国運を危うくするだろう。「死ね死ね団のうた」を笑い飛ばせない状況なのだ。
「死ね死ね団のうた」は2分30秒の間に実に102回も、日本人に対して「死ね」と罵倒し、加えて2回「死んじまえ」と歌っている。
ゆるいギターの音色とブラスバンドに男女混成合唱、一度聞いたら忘れられない強烈な印象を残す楽曲。

作詞:川内康範  作曲:北原じゅん 
唄:キャッツアイズ、ヤング・フレッシュ 
死ね 死ね
死ね死ね死ね死ね死んじまえ

黄色いブタめをやっつけろ
金で心を汚してしまえ
死ね(アー) 死ね(ウー) 死ね死ね
日本人は邪魔っけだ
黄色い日本ぶっつぶせ

死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

世界の地図から消しちまえ 死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね


死ね 死ね
死ね死ね死ね死ね死んじまえ

黄色いサルめをやっつけろ
夢も希望も奪ってしまえ
死ね(アー) 死ね(ウー) 死ね死ね
地球の外へ放り出せ
黄色い日本ぶっつぶせ

死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

世界の地図から消しちまえ 死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

死ね死ね死ね 死ね死ね死ね
死ね死ね死ね 死ね死ね死ね

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政治のコスモス「無限のリヴァイアス」がもたらした衝撃

87323227de58db161c8f2de23b535508.jpg スタジオオルフェ所属黒田洋介、倉田英之らは1999年同時期に、アニメ史に残る傑作に参画。
黒田洋介-谷口悟朗「無限のリヴァイアス」、倉田英之-大地丙太郎「今そこにいる僕」がそれである。
「今そこにいる僕」は「未来少年コナン」のシリアス版とも言える内容。
登場人物が取り置かれる状況描写・感情描写は極限状態を現し、声優さんの演技力に打ち支えられて、従来のアニメ描写の限界を打ち破る内容。
一方の「無限のリヴァイアス」はノーベル文学賞作家ウィリアム・ゴールディング(William Golding)の「蝿の王」を下敷きにした、権力が持っている負を産み出す力や革命の退廃を骨子にして政治のコスモスを巧みに捉えている作品。
「リヴァイアス」は近代民主主義ルソー社会のようなジュール・ヴェルヌ「15少年漂流記」とは、対極的な作品である。であるから、「リヴァイアス」は
「銀河漂流バイファム」の如き直面した危機に団結をもって乗り越えてゆく等という理想主義の香りは微塵もなく、登場人物は禁忌なまでに深刻な状況に取り置かれ、各員が生存を賭けて立ち振舞う。
日常の社会秩序は実定法による抑止力を科せられて成立するが、外界と隔絶した状況下において、少年・少女達のみで秩序構築の必要性に迫れれば、十代の生々しい暴力性がコミュニティを支配する事となる。
しかし、エアーズ・ブルーの暴力支配は、規則功利主義に基づく統治を目論むシュタイン・ヘイガーによって覆される。当初、ユイリィ・バハナを傀儡として擁立するが、後に対外的な武力を掌握した尾瀬イクミをリーダーとして航宙艦リヴァイアスに降りかかる危機を乗り切ろうとする。
ファイナ・S・篠崎は逆境を宗教的試練と受けとめて「聖母アルネの慈悲」を掲げ、原始宗教弱者救済コニュニティを形成する。
ファイナは宗教原理主義の悪しき理念に基づき、相葉昴治の自分への愛情を引き止めるべく、恋人の蓬仙あおい暗殺を仕掛ける。
特筆すべきは、「リヴァイアス」には「蝿の王」に該当するキャラクターが存在しない、航宙艦リヴァイアス戦闘知性体ネーヤが登場する。
ネーヤはリヴァイアス内部で発生する各員の行動や感情を吸収して、リヴァイアスの守護と相葉昴治の導師としての役割を果たす。
そして、相葉昴治自らの意志と蓬仙あおいの介添えで、武力行使の停止を求めるべく、自己犠牲の精神を持ってして、銃口の前に立つ。

 リヴァイアスが素晴らしいのは、卓越したSF考証に基づいた描写のみならず、「蝿の王」が提示した、人間の野生と政治について赤裸々な表現をアニメ上で行った事である。
リヴァイアスは人文科学の叡智を骨子にして、日本アニメが培った演出や技術による装飾により、鮮烈な印象を我々に与えた。
当然、後に続く作品群にも影響を及ぼし続けていると推定され、アニメ史を考察するには避けて通れない作品であると言えるだろう。

posted by たかおん at 00:42| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | アニメ批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月14日

反米アニメの系譜

(敬称略)
○戦争を欲する帝国
 巷にてタブーの壁はそそり立ち、それを仰ぎ見て嘆息するのみが人に有らず。短き人生において息をするのと同じく、森羅万象に思いを巡らしよもやま話しを語り合うのが人民の心得なり。
 近代史は権力拡散の一方向に向いつつあり、逆の作用は歴史に逆らう諸行である。しかし、富の集中は日に日に進み、巨大な資金は利潤追求のため戦争を欲する。一方、世界は資源の限界に突き当たり、帝国は資源への欲望を満たすための軍事力行使をためらうことはしなくなりつつある。

○ウォルト・ディズニー、戦争への傾斜
 ウォルト・ディズニーはウォルター・イライアス・ディズニーWalter Elias Disneyがフルネーム。ウォルトは1937年12月21日カラーアニメーション「白雪姫」を発表。手塚治虫はこの「白雪姫」を繰り返し見て研究し、アニメーション制作を志すきっかけとなった。1920年代〜30年代に現代社会に繋がる、各分野の原典のほぼすべてが芽生えていると言われている。通称ローリングトゥエンティズ「光芒の1920年代」。アニメーションもその一つ。
ネルソン・ロックフェラーNelson Rockefellerは「ミッキーの父」を利用し、ディズニースタジオは政府や軍と緊密な関係を持つようになる。
・反ナチ・反日プロパガンダ映画
 『総統の顔』Der Fuehrer's Face(1942年)・『死への教育』Education for Death(1943年)・『理性と感情』Reason and Emotion(1943年)
 『総統の顔』にでてくるドナルドダックは元水兵がモチーフで、映画『パール・ハーバー』にB-25の側面にドナルドが描かれている。
 『空軍力の勝利』Victory Through Air Power(1943年) 超高度・無着陸の飛行性能をもつ戦略爆撃機を作って、日本の大都市を空爆するという超リアリズム軍事シミュレーションアニメ。
アリグザンダー・ド・セヴェルスキーAlexander de Seversky少佐の爆撃機増産運動を支援するためのものであった『空軍力の勝利』は、ディズニーが自腹を切って製作した。
対して、日本は『桃太郎・海の神兵』(海軍省後援・瀬尾光世監督・1944)を制作している。
 日本とアメリカはアニメーション上でも戦争をしていたのである。
 私がアメリカの国力を思い知ったのは意外にもスターリング・ノース Sterling North原作『あらいぐまラスカル』(1977年)を見て、戦争を戦いながらも、スターリングおぼっちゃまはアライグマと戯れながらカヌーを自作しちゃってて、\(゚o゚;)/ウヒャー。実際には、第一次世界大戦中の話しだったが・・・。

○反米マンガの金字塔「奇子」
 手塚治虫はディズニーへの絶大な憧れがあった。一方、ディズニーは『空軍力の勝利』で見られるとおり、愛国者だが、白人史上主義者=人種差別主義者でもあった。手塚治虫著「ガラスの地球を救え」で、ディズニーで会ったシーンが記載されている。パーティの席上、手塚はディズニーを見つけて、話しかけるが、ディズニーは怪訝な顔をして相手にしなかったそうだ。回りの人が「あの人が『アストロボーイ』 の手塚だ」と耳打ちすると、急に親しく歓談してきたそうである。手塚はこの経験を踏まえて、ディズニーのことを「大したことない奴だと思った」と回想している。
 アメリカ留学経験のある姉によると、太い縁のメガネをかけた典型的日本人男性は特に差別されるタイプだそうだ。日本人女性に対しては「妻にするなら日本人女」ともいうべき神話があるが、それでも差別はすごいらしい。日本人男性ときたら、最下層に近しい扱いだそうだ。それが、現実だし、日本社会最大のタブーとも言えるだろう。詳しくは佐藤 育代 (著)海外で差別されたことありますか―はだかの“名誉白人”」に詳しい。
 手塚は戦争から生き残り、マンガ表現の渇望を人間讃歌で満たした。一方、アメリカ憎しの感情も深かった。世界三大革命はフランス革命・ロシア革命・日本戦後農地開放と言われている。フランス革命は「ベルサイユのバラ」になり、ロシア革命は同じく池田理代子「オルフェウスの窓」になった。日本戦後農地開放は手塚治虫「奇子」(あやこ)が近いだろう。作中にはCIAのエージェントが出てきて、国鉄総裁暗殺や列車事故を起したと指弾している。日本史革命マンガでありながら、反米マンガでもあるのだ。

○国家別ディズニーランドの遇し方
 中国の北京市に北京石景山游来園建設され、ディズニー作品とおぼしきキャラクターやドラえもん、キティちゃんの着ぐるみまでいるそうである。例によってディズニーがクレームつけまくっているそうで、白雪姫などのオプジェは破壊されたそうである。キティちゃんと、ドラえもんだけの日中友好ワンダーランドとして再生するのが良いだろう。
フランスの場合は、ディズニーランドを「文化侵略」ということで追い出した。国家それぞれのディズニーへの接し方があるのだろう。
 日本の場合は2006年になんと、ディズニーランド(ディズニーシーを含む)の入場者数は過去最大になったそうだ。あの高い入場料を厭わずにバリバリ訪問するのはいかなる心理なのだろうか?
 仮にもフランスは連合国側としてアメリカと一緒に戦った戦友である。それでも、ディズニーランドを追い出したのである。日本はディズニーアニメ作品と激突した仇敵なのである。それでも、過去を忘れてすべてを水に流して、「出銭ランド」へ喜び勇んで訪問するのはいかなる心境なのだろうか?
ちなみに、ディズニーランドの売上金の7%はアメリカのディズニーランド本社へ送金される。

○バーチャルからリアルへの逃避
 1950年代に入り、ディズニーアニメは競争力を失いつつあった。その最中、ウォルト・ディズニーはディズニーランドの計画を発案、実行してゆく。ウォルトはアニメ作品というバーチャルの世界で敗北を喫し、リアルの世界へ逃避したのである。その結果産まれたのがディズニーランドである。1966年ウォルトの死後も低迷が続き、1990年代に入り、日本アニメを盗作して再興を謀ったのである。
ガイナックス作・NHK放映アニメ「ナディア」とディズニー「アトランティス」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9219/atlantis.htm
ジャングル大帝 vs ライオンキング
Remake of Tezuka's Popular Story Turns Into Denial?
http://www.kimbawlion.com/rant2.htm
 版権にウルサイディズニーは盗作を旨とする社是なのであるから、自己矛盾も甚だしい、と言える。

○オリエンタルランドの黒い噂
 ディズニーランド(シー)は動物を可能な限り排除しており、特にディズニーシーの水中はものすごい高濃度の消毒(毒)がされて、生物抹殺を貫徹しているという話しである。
 また、壁の「ホコリ」まで塗装で実現しているため、塗装加工の携わる人の健康被害もでているようである。
京葉線開通に合わせて、舞浜のホテル群が誕生した。この用地はすべてオリエンタルランド社が分譲したものである。安く払い下げられた土地を他人に転売することは禁じられているので、県議会で黒い噂が問題になった。オリエンタルランド社はTDLの売上について、一定割合の指導料をディズニーランド本社に納める契約を結んでおり、 売上には直営ホテルの分も含まれる。指導料をとられてはホテル経営が成り立たないということで、 ホテル用地分譲が許可されたそうだ。ともかく、土地の譲渡益で多額の借入金を軽減することができたのが、オリエンタルランド社の経営が成功した原因の一つであることは間違いない。
 つまり、行政上の「取り計らい」が(千葉だけど)東京ディズニーランド開園に果たした役割は大きい。

----以下転載------
情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2005/05/post_8c54.html
2005.05.26
オリエンタルランドの闇ーー東京ディズニーランド埋め立て地について県と“密約”
●5月20日の「読売新聞」が1面で、地元やくざへの利益供与疑惑をスクープ 
 東京ディズニーランドなどの運営会社「オリエンタルランド」(東証1部上場)ーー地元の鉄道会社「京成電鉄」(22・8%)、「三井不動産」(15・1%)がその株式割合からもわかるように、実質、共同経営して来たわけだが、この子供に夢を売るレジャー会社の闇の一端につき、「読売新聞」がすっぱ抜いている。
 地元の広域暴力団・松葉会の元最高顧問の親族が関わる不動産会社「中央興発」(浦安市)に、オリエンタルランドが清掃業務を委託し、判明している7年間だけでも総額9億円余りを払っていたが、「中央興発」はその仕事を別会社に丸投げしていた。この清掃業務は89年12月から委託しており、要するに、もっと以前から利益供与し続けていたのではないかというわけだ。
 だが、同紙も社会面で報じているように、オリエンタルランドと地元やくざとの付き合いはこの程度のものではない。
 前出の松葉会元最高顧問自身、発起人になっている別の建設会社「京三建設工業」(東京都千代田区)の社名は、オリエンタルランドの2大株主である京成電鉄の「京」と、三井不動産の「三」を取って名づけたものだし、73年に設立された際の同社株主は、第1位が前出・元最高顧問であり、そして第2位は後、オリエンタルランドの社長を務めた高橋政和氏(故人)だったというのだ。

●東京ディズニーランド埋め立て地は、そもそも県に寄附すべき土地では
  本紙が特に注目したいのは、この「京三建設工業」が東京湾の埋め立ての仕事を受け負っていた事実。
  東京ディズニーランド(83年4月オープン)は、東京湾の浦安地区の埋め立て地(約30万坪)に立てられているが、その埋め立て工事の一部を、京三建設工業はオリエンタルランドからもらっていたという。
  三井不動産といえば、いまでこそ日本一の不動産会社だが、「三井不動産事件」(このことは、写真の三井不動産元社長・江戸英雄氏の著書が詳しい。94年刊)のダメージもあり、当時は一不動産会社に過ぎなかった。それが三菱地所の倍近く、現在、1兆1000億円以上の売上高を誇るその原資は、千葉県や地元財界大物・菊池寛実氏(本紙05年3月17日付け関連記事あり)が社長を務めた「朝日土地興業」(フィクサー・小佐野賢治氏が関与)などの協力を得て、東京湾の千葉県部分を埋め立て、そのタダ同然の土地を次々と売っていったことによる。千葉市中央地区の中央埠頭やコンビナートがあるところも全部、そうだ。埋め立てを開始したのは1958年で、最初に行ったのは市原地区の約120万坪だった(後、千葉市中央地区の約150万坪は63年より。東京ディズニーランドの地も含む浦安地区約260万坪は64年より)。
  これら埋め立てには、前出・菊池氏の他、千葉三郎代議士等地元有力政治家、そして地元やくざ・松葉会等も埋め立てに伴う漁業権交渉などで協力していた。
 東京ディズニーランドに関し、京成電鉄を引き入れたのは、地元有力企業であるし、当初、三井不動産は大型レジャー施設の成功に懐疑的だったから。しかし、京成電鉄がオイルショック等で三井不動産の比でないダメージを受けたことから、三井不動産主導になる。そして1980年、日本興業銀行、三井信託銀行をメーンに総額1600億円の協調融資を受け、いよいよ東京ディズニーランド建設に着手。その約2年半後、オープンに漕ぎ着けた。
  以上のような経緯から、オリエンタルランドが京三建設工業に仕事を回すのは必然だったし、現オリエンタルランド社長も、その辺の事情はよくわかっているはずだ。オリエンタルランドの第3位株主に千葉県(3・2%)がいるのも、また必然なのだ。
 ところで、その千葉県と三井不動産との間で、いまの東京ディズニーランドが立つ地も含む浦安地区埋め立て(約260万坪)において、三井不動産側は京成電鉄と共に、そのかなりを住宅用地として販売させてもらう代わりに、東京ディズニーランドが立つ約30万坪も含む60万坪(その後、ディズニーシーが建設された場所も含む)を寄附するという“密約”が結ばれていることは、いまではほとんど知られていないようだ。
 イキナリ、そんなことをいっても、読者はポカンとされるかも知れない。だが、前出の高橋氏や、三井不動産のこの東京湾埋め立てを立案した江戸元社長とも親交があった生き証人も存在するのだ。
「ところが、その約束は反故にされ、アリバイ的に同地で博覧会を開催するとか、大学を作るという名目にすり替わり、いつしか、ディズニーランドが出来てしまった。証拠の文書もありますよ」(関係者)
 前出・最高顧問も、それを知らないはずはない。
------転載終わり-----
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■日本アニメーションの反攻
○竹田菁滋が切り開く反米アニメの新地平
 TBSの竹田菁滋プロデューサーは立て続けに「機動戦士ガンダムSEEDシリーズ」、「BLOOD+」、
「コードギアス 反逆のルルーシュ」と反米を物語の骨子に据えた作品を発表した。
機動戦士ガンダムSEEDシリーズでは、政治と軍産複合体による権力の2重構造を描いている。大西洋連邦はアメリカをモチーフとしており、大西洋連邦大統領はコーディネイターの排斥を狙う組織ブルーコスモスの新盟主ロード・ジブリールの傀儡として描かれている。
 「機動戦士ガンダムSEEDシリーズ」は、かつて高橋良輔の「ガサラキ」が描いた「日本とアメリカの有り様」とは違い、アメリカの軍産複合体を辛辣に演出している。しかし、反米アニメとしては序章に過ぎなかったのである。

○戦後オタク文化の総決算「Blood+」
 「戦後の総決算」という言葉がある。それに擬えて言うならば、「Blood+」こそが、「戦後オタク文化の総決算」とも言える作品だろう。ブログ上での評価は総じてあまり高くない。というよりも理解されていない。重層に人類社会・文化の多くの要素を含ませているので、広範な人文系の知識無くしてはBlood+の作品世界を見通すことは出来ないのだろう。
 「Blood+」の世界観は萩尾望都「ポーの一族」や岩明均「寄生獣」を下敷きにしていると推定される。バンバイヤー(吸血鬼)の設定や、異生物への素早いメタモルフォーゼ、つまり生物学でいう変態であり映像上の変身が繰り返される。
直接にはBLOOD THE LAST VAMPIREが雛形となっている。
http://www.aniplex.co.jp/blood/
 キャラクターのネーミングは広瀬隆「赤い楯」よろしく、ロスチャイルド家の家系の名前が流用されている。
 1話の舞台は沖縄の古座。製薬会社サンクフレシュ・ファルマシーのヴァン・アルジャーノと米軍基地司令官が、生体兵器「マウス」の回収を巡って、策謀を巡らす。
 主人公の少女音無小夜は古座商業高校で「マウス」と遭遇。当直の先生が瞬殺されるのだが、その先生のネーミングがいかしている。その名も「稲嶺純一郎」だ(^o^)。後に米軍はヤンバル記念館も爆撃によって殲滅したが、それらも日米地位協定を楯にしてアルジャーノと共に事件を闇から闇へと葬る。
折しも2004 年8月13日沖縄国際大学「本館」に米軍ヘリが墜落・炎上した。 日本の警察は一切シャットアウトされて、米軍が墜落ヘリコプターの機体を運搬処理してしまったのである。Blood+の1話-8話は、かの事件を受けての創話だと思われる。
 8話からベトナム(ハノイ)に舞台を移す。
 至って、個人的な感想なのだが、9話「それぞれの虹」は、名画「8月のクリスマス」を思わせるカットの間の取り具合やキャラクターの演出、風景の描写、そして、ベトナム戦争時における米軍の負の遺産である不発弾を巡る悲劇の連鎖を丹念に描いた作風に、反米アニメとしての高い完成度を見た私は深い感慨を抱いた。
 ところが、これではまだまだ終わらなかったのである。

○アメリカという国家の病理
 作中終盤ミスター・グラントという、 リチャード・B・チェイニー副大統領を少し若くした風貌のキャラクターと、ブレッドという、コンドリーザ・ライス国務長官そっくりのキャラクターが登場する。
ブレッドというのは「米(アメリカ)」に対置したパン(ブレッド)に由来していると思われる。
アンシェル・ゴールドスミスの命を受けヴァン・アルジャーノはアメリカ軍部に「翼手を作り、世界を混乱させ、それをコープスコーズに始末させる」というマッチポンプ自作自演の危機創出&解決システムを売り込む。これにより、サンクフレシュは莫大な利益をアメリカは絶対的な世界の信頼を得ようとした。
 しかし、デイーヴァのコンサートの際、コンドリーザ・ライス国務長官そっくりのブレッドは自分が翼手になってしまい、アルジャーノの部下を殺害、SPたちの拳銃のラッシュを受けて転落。驚愕するアルジャーノに、グラントは「貴殿はアメリカ国民では無い。自分の身は自分で護りたまえ」と、拳銃を一つ渡してSPと逃走してしまう。
 平たく言うと、直裁的な表現で、アメリカという国家の病理を描いたのである。

○植民地支配の二重構造を描く「コードギアス 反逆のルルーシュ」
 実は「コードギアス」は10頭身のCLAMPキャラクターを使い、キャラクター萌えを手堅く狙った作品で人気が高い。よって、敢えて私が何か言うべき事もさしてない。
 竹田菁滋がこの作品で世に問うたのは、アメリカに支配されている日本の現状と、戦前の日本による植民地支配によって創氏改名(そうしかいめい)を行い「名を奪われた植民地化の人々の心情」をえぐりだすことにある。
 よって、「コードギアス」は地理的にはアメリカ、ネーミングや統治システムや服飾的にはブリテン・イギリスを模した「ブリタニア」によって軍事支配された「日本」の有り様を描くとともに、戦前に行った大日本帝国の植民地支配の罪悪を追求した作品である。
 話題を呼んだのは23話の「血染めのユフィ」である。日本とブリタニアの融和を訴えて「行政特区日本」創設を願った、皇女ユーフェミア・リ・ブリタニア(Euphemia Li Britannia)は、「ギアス」よって意にそぐわない「日本人殲滅」を宣言してしまう。それにより、「行政特区日本」の理念に共鳴した日本人を大量虐殺してしまうのだ。この話しは英語圏のサイトでも侃々諤々の議論が行われている。
 理由は解らないが「コードギアス」は25話・26話の放映が行われておらず、今後の展開を注視したい。

○既に作品は世に放たれた
 「コードギアス」の25話・26話の放映が先延ばしになっているのが、とても気になるが、既に作品は世に放たれたのである。先達の富野由悠季、高橋良輔、庵野秀明らの作家性に任せることにより市場での収益を確保するという、連綿と続く苦闘により、広告代理店からの「作中における治外法権」を得たことによって、竹田菁滋プロデュースの作品群は創造することができたのである。(たぶん)
 作品に込められたメッセージは日本語圏に留まらず、英語圏や中国語圏にも伝搬し、日本アニメ文化の成熟度を知らしめることになるだろう。

posted by たかおん at 00:00| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | アニメ批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

アニメーション再興の礎となった機動戦士Vガンダム

(敬称略)
○1979年のガンダムブーム
 1974年に放送を開始した『宇宙戦艦ヤマト』 は1977年に劇場版作品が公開されて大ヒットとなる。富野由悠季は打倒西崎義展を掲げ『ザンボットスリー』の後、1979年に『機動戦士ガンダム』を世に送り出す。後に劇場版三部作が公開され、一大ブームを巻き起こし、ガンダムプラモデルは常に品薄状態だった。私も雨が降った後に大きな水たまりとなったイトーヨーカドーの駐車場でガンプラを買うために並んで待った記憶がある。当時、ファミコンも無い時代であり、ビデオデッキは高級品であった。競合メディアが少なかったので、テレビアニメが持つ少年少女への支配力は絶大だった。 
1979年放映の機動戦士ガンダムは通称[ファーストガンダム]と呼ばれている。ガンダムの作品中においてはスペースコロニーへの移民が開始された年を宇宙世紀元年との設定である(Universal Century:U.C.)。[ファーストガンダム]はU.C.0079だ。
7年後の1985年にZガンダム(U.C.0087)放映、1988年劇場版[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア](U.C.0093)、1991年[機動戦士ガンダムF91](U.C.0123)、そして、1993年[機動戦士Vガンダム](U.C.00153)へと繋がる。

○宇宙世紀シリーズ最終章となる機動戦士Vガンダムの放映
 ZガンダムやF91を経て、旧来の宇宙世紀シリーズのガンダムとは一線を画した作品としてVガンダムは登場した。旧来の人物系譜を切り捨て、主人公を歴代ガンダムシリーズ最年少の13歳とした。
----概要転載----
宇宙世紀0149年。サイド2にて建国したザンスカール帝国は地球に侵攻を開始。地球連邦はさしたる抵抗をすることもできず、民間の抵抗組織「リガ・ミリティア」だけがザンスカール帝国の「ベスパ」と戦っていた。ある日、戦闘に巻き込まれたウッソは、成り行きで「V(ヴィクトリー)ガンダム」を操縦することになり…。
-------転載終わり-------
ざくっと総評を述べると、100年後、もしくは50年後でもいい、それらの後世の人たちから見て、すべてのガンダムシリーズ中、ファーストガンダムの次に付けるぐらいの評価が下されると、私は確信している。確かに話数によっては作画荒れがひどく
「マーベットさんの目が『ナニワ金融道状態』だよ!」
とも揶揄されたが、ストーリーの骨子は普遍の価値を持つ。
 頑是ない子供には解りづらいのが、連邦政府が弱体化して各地のコロニー勢力が群雄割拠状態にあり、急速に台頭するザンスカール帝国に抵抗するリガミリティアと連邦政府軍の一部が呼応して戦線を張っている、という政治情勢である。
 登場人物は大上段に構えている人物は少なく、どいつもこいつも明るいながらも必死なのである。必死なだけあって、どんどん作中のキャラクターは戦闘で死んでいく。湯水の如く人を死なせる不条理さは、私にしてみればむしろ戦争作品における矯激のリアリティがあると感じた。
 インターネットを散見すると、「Vガンダムななぜ失敗したか?」という論調が目に付くが、私は総体として作品を見て失敗とは思わない。優れたストーリテリングと世界観を作画が活かしきれなかった事は残念だとは思う。スタッフの無念は、名作としての評価を受けるに値する内容であったのに、「絵だけで評価する世間」に負けたという点において存すると思う。

○学校依存をバロメーターとした保守派アニメと革新派アニメ
 アニメは美少女・メカ・SFを三要素として成立している。もう一つの要素として学校依存度合による作品の挑戦度計測がある。どういうことかというと、アニメ作品にはおおよそ学校がでてくる。小学校・中学校・高等学校・大学(のサークル)に設定を依存する。舞台を片足だけ学校に突っ込んでおくと、視聴者が共感しやすいという図式だ。よく思い返してほしい、学校が出てこないアニメ作品は極小数だ。ファーストガンダムは「学校へ行こう」とするところで戦禍に巻き込まれるが、実質的に学校は出てこない。私はそこに驚いた。ガンダムSEEDで主要キャラクターはヘリオポリスコロニーではカトウ教授の研究室に出入りしている御学友達として描かれる。「学校」は登場人物同士を結びつける共同体として解りやすい以上に、視聴者に親近感を持って貰うためのギミックとして機能している。新世紀エヴァンゲリオンを思い出して欲しい。最初から最後まで学校依存が抜けなかった。「学校」とは遠い世界設定であった「エウレカセブン」では主人公レントンの内面心理世界を描く時にやはり「学校」を使っている。
 私はVガンダムが革新派アニメであるとする論拠に「学校」依存が皆無な点を挙げる。全く出てこないのである。当時、サンライズはガンダム枠・勇者シリーズ枠共に低視聴率に喘いでいた。Vガンダムは5%で勇者シリーズは3%である。視聴者に媚びれば「学校」依存バリバリが定石だっただろう。もう一つの革新性は体制側依存していない点である。当時のユーゴスラビア内戦に感化されたとあって、高橋良輔の太陽の牙ダグラムっぽく、トレーラーで移動しながら暴政に立ち向かうレジスタンスという、日本アニメでは少数派の図式で挑戦したのである。

○江青を髣髴とさせるカテジナ・ルース
 なんといっても、Vガンダム中、ピカ一の存在感を示したのがウーイッグで商いをしていた富豪の御令嬢カテジナ・ルースだ。
カテジナは作中冒頭「怖い人だけにはならないでね、ウッソ」とのたまっていた。やがて、文化大革命を主導し「紅色女皇」と呼ばれた江青も驚くばかりの変節を遂げていく。
主人公ウッソ・エヴィンはショタコンの「ルペ・シノ」、ギロチン家系コンプレックスのファラ・グリフォンと対戦し、カテジナ・ルース頂上決戦に至る。
カテジナはザンスカール帝国の女王の弟、クロノクル・アッシャーを領導する立場となりリガミリティアの前に立ちはだかる。後に「カテ公」の愛称で親しまれることになるカテジナ・ルースは怖い人になってしまったのだ(;^_^A アセアセ・・・。カテジナお嬢様の御変節というか御変貌振りがVガンダムの魅力の一端で、語り草となっている。
ちなみに、最終回の最後のシーンは以下の通り
いくつもの愛をかさねて
http://www.youtube.com/watch?v=JQmL2JjK-0E
全話見ないと解らないだろうが、アニメ史上屈指の思い入れ深いシーンとなっている。

○『新世紀エヴァンゲリオン』への影響
 機動戦士Vガンダムは1993年放映、新世紀エヴァンゲリオンは2年後の1995年である。最終話も含めてガイナックスはVガンダムの作画を担当している。庵野秀明自身がエヴァゲリオン製作に入るきっかけはVガンダムに感化されたことを語っている。
----転載開始----
 また、『エヴァ』は富野作品の強烈な影響下にある作品だが、その中でもっとも色濃く影響を与えた作品は、おそらくこの『Vガンダム』だろう。エヴァの2年前に放映された本作は、親に捨てられた主人公の少年(ウッソ)が「自分の中から出て行かないで」という母性のエゴイズム(シャクティやマーベット、シュラク隊のお姉さん、あるいはファラやルペ・シノのいった敵役まで)に引きずられながら、圧倒的な他者として主人公を拒絶する初恋の相手(母性を持たない少女=カテジナ)と対決する物語である。エヴァはここから「母性の肥大」と「圧倒的な他者=少女からの拒絶」という重要なモチーフをふたつ持ち帰っている。
-----転載終わり-------
Vガンダムはウッソは母親を失い、それを乗り越えていく。一方のエヴァンゲリオンは杖とも柱とも頼む母を失ったと考えていたシンジに姿を換えて母が表れる円環がある。ウッソ・エヴィン-ハンゲルグ・エヴィンという父子のわだかまりの原典もVガンダムにある。エヴァンゲリオンでは過剰なまでに父子対立が描きこまれている。
 エヴァンゲリオン後、商社筋は2匹目のドジョウ掬いに怒濤の参入を見せ、テレビアニメ製作予算は増額された。アニメ界再興の直接の引き金はエヴァンゲリオンが引いたが、エヴァンゲリオンはVガンダムなくして存在しなかった可能性があるのだ。

○Vガンダムに参加して、その後重要な役割を果たした人たち
 ユカ・マイラス役の田中 敦子(たなか あつこ)は『攻殻機動隊』シリーズの草薙素子を担当。ユカ・マイラスと草薙素子は「戦う女」という類似点がある。草薙素子役では強い女を演じながらも自らの感情を湛え、作中で存在感を示している。
福田己津央(ふくだみつお)は新世紀GPXサイバーフォーミュラ(1991年)の後、Vガンダムでは絵コンデで参加、機動戦士ガンダムSEED(2002年)、機動戦士ガンダムSEED DESTINY(2004年)ではモビルスーツの背中に重装備を背負い、ビームシールドもどきの「光の翼」を演出するなど、Vガンダムに対するオマージュも散見される。
村瀬修功(むらせ しゅうこう)はVガンダムに作画監督で参加。新機動戦記ガンダムW (1995年) ガサラキ (1998年)アルジェントソーマ (2000年)サムライチャンプルー (2004年) のキャラクターデザインを担当し、エルゴプラクシー(2006年)で監督を手がけている。


○Vガンダムサウンドトラックの奇蹟
 機動戦士VガンダムにはサウンドトラックCDがある。SCORE 1 2 3とあって、
SCORE 3がもっとも傑作だろう。千住明+ポーランド・フィルハーモニー交響楽団が奏でる交響曲はよくあるアニメサントラとは一線を画す。
 楽曲としては「もののけ姫」もVガンダムに匹敵するぐらい良いと思うが、何か違う。録音が違う、演奏者達の雰囲気が違う。シンプル録音に、奏者に任せた演奏・・・うまく言い表せない。ほんの少しのざわめきの中からフルートの音色が立ち上がり、竪琴が続く。次々と楽器が参加して曲を奏でていく様はVガンダムとは切り離しても自立するだけの世界観の重みと感情が含まれている。
 とにかく、アニメサントラとはしては桁外れの傑作だ。

----転載開始----
千住明 交響組曲第二番 サウザンドネスツ 機動戦士Vガンダムより
「重い歌を唄う人たちと」 総監督 富野由悠季
 うつくしい金髪と伸びやかな脚が、ポーランド女性の印象なのだが、その笑顔は我々がトーキョーで見る若い娘たちのものとはちがっていた。それは、男たちや老人たちもおなじで、一言でいってしまえば、歌が好きな癖に、重く悲しい歌を唄う事しか知らない人たちなのである。その彼等の素質は、今回の楽曲を録音する為に行ったクラコフで、より痛感することとなった。
かつてのポーランド王国の首都であり、第二次大戦の戦災から逃れながらも、共産主義の統制下に身を屈した内陸の都市クラコフは、我々の知る近代化から
大きく遅れをとったために、そこの人びとは、我々が知っている商業主義に汚染された明るさ、ルックスの良さや、耳障りの良さといったものを知らないのである。
 そのために、作曲者の千住明と指揮者のアンソニー・イングリス氏は、この楽曲の持っている古典としての新しいスタイルを、彼等のどのように演奏させるかで悪戦苦闘していた。しかし、それは、古典のもっている原理的な感性を肉体としているクラコフの演奏者たちの技芸を否定するものではなく、むしろ、千住音楽が目指しているものを具現化していくためには、トーキョーやロンドンで学ぶことができなくなった土着の薫りというものも必要なのだ、ということを教えられたというのが、正直な結果であった。
Vガンダムの根底的なテーマは、近代文明は、人と環境にとって怪しいものではなかったか、という物である。その解答の一端を、ぼくは、まさかオーケストラの演奏から思い知らされるとは予想もしていなかったので、これは衝撃的だった。 彼等の感性のなかには、我々がとうのむかしに忘れ去った、ダサいが、原理的な人の心の表出の方法といったものが残っていて、そういったものを思い知らせてくれたのだ。問題なのは、屈折しすぎた歴史から、そろそろ解脱して欲しいのだが、それをしようとする現在、日本人がトーキョーでやったまちがいをこの国もやるだろうという、という予測をしないために、それは、まちがいなく次のガンダムのテーマになってしまうという意味で、僕は、痛恨の念をもってこの国を好きになってしまったのである。
 クラコフの夜は、我々が三十年前に忘れ去った暗さがあったということは、比喩でなく現実なのである。
-----転載終わり-------
 悪口キングの富野由悠季がべた誉めしている。そのぐらい凄いのだ(笑)。

○まとめ
 まぁ、イラストの一つも書きたいのだけれど、一日かけてもロクなものは描けないので、文字をもじもじ打ち込むしかやらないわけ。
 なぜ、今ごろVガンダムなのかというと、この作品がオタクの歴史に埋没して、ネットで失敗作の汚名を着せられているのはどういうわけ?という義憤があるわけだ。富野監督の「このDVDは見れたものではありません」というのは当時のサンライズの体制に不満があった意趣返しだけれども、それはそれ。むしろ、少ないリソースだからこそ滲み出るギリギリ感みたいなのが作中に感じられて良いのでは?と言ってみたいだけだったり(^-^)ノ

○リンク集

Vガンダムの頃
http://ura-tomino.at.webry.info/200512/article_4.html
再びVガンダムの頃
http://ura-tomino.at.webry.info/200605/article_9.html
再びVガンダムの頃 その2
http://ura-tomino.at.webry.info/200605/article_10.html
Vガンダム 1529人
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2426
Vガンダムも宇宙世紀です
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1538947
ウッソ・エヴィン
http://mixi.jp/view_community.pl?id=979366
ロベルト・ゴメス
http://mixi.jp/view_community.pl?id=835952
オデロ・ヘンリーク 71人
http://mixi.jp/join_community.pl?id=582618
カテ公。 660人
http://mixi.jp/view_community.pl?id=71141
おかしいですよ、カテジナさん!
http://mixi.jp/view_community.pl?id=76721
シャクティ・カリン
http://mixi.jp/view_community.pl?id=147788
シュラク隊
http://mixi.jp/view_community.pl?id=98959
Vガンダム シュラク隊
http://mixi.jp/view_community.pl?id=102294
ファラ様に心酔する者たちの集い
http://mixi.jp/view_community.pl?id=111026
Vガンダム
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2426
ザンスカール帝国・ベスパ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=131983
富野由悠季
http://mixi.jp/view_community.pl?id=44617
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